聖日礼拝説教要旨‘25.6.8
ペンテコステ記念礼拝

聖書箇所:ヨエル2:28~32

2:28 その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。
2:29 その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。
2:30 わたしは天と地に、しるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。
2:31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
2:32 しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。主が言ったように、シオンの山、エルサレムには逃れの者がいるからだ。生き残った者たちのうちに、主が呼び出す者がいる。」

先週はビジョン2025の聖句Ⅰから語ったが、使徒の働き1章の昇天されるイエス様の聖霊降臨の約束からであった。本日はペンテコステを迎えて使徒の働き2章の内容が起こった。ペテロが語るように聖霊が降ったのは旧約聖書ヨエル2章の預言の成就であった。

Ⅰ.聖霊が降った時
キリスト教の神は、父なる神様、子であるイエス様、聖霊なる神様の三位一体の神である。聖霊の話をするが、目には見えなくとも、この世界で神様の働きを進めておられる。人に神様の真理を教え、救いへと導き、教会の働きを導かれている。聖霊の働きがなければ、キリスト教は実体を失い、命のないものとなる。
聖霊が降る約束を、預言者ヨエルはイエス様が来られる数百年前に語った。聖霊は旧約聖書の時代にも働かれていた。預言者、王、祭司といった特別な人に特別な機会に降った。「すべての人にわたしの霊を注ぐ」(28節)とは、旧約聖書の時代を超えて新しい時代を迎えることであった。それは性別、年齢、立場、身分、国籍も超えた神様の業である。
ヨエルに語られた約束は、使徒の働き2章、イエス様が天に帰られた後の五旬節の日に成就した。聖霊の愛、力、命に満たされた弟子たちはエルサレムで立ち上がり、ペテロが説教した。先に起こったイエス様の十字架の死、よみがえりは神様の計画と予知によってなされた。神様は全ての人の救いのために御業を進められた。神様の大いなる救いの歴史は、イエス様の十字架と復活の次に聖霊の降臨が起こり、全世界に開かれていった。

Ⅱ.終末の救いの時
ヨエルは聖霊が降る約束を「主の日」と呼ぶ終末と結び付けながら語っている。「天と地に、しるしを現れさせる。」「血と火と煙の柱。」(30節)、「太陽は闇に、月は血に変わる。」(31節)という、天変地異が起こる様子はヨハネ黙示録にある光景を思い起こさせる。ヨエルは数百年後のイエス様が天に帰られた後の聖霊降臨をさらに越え、イエス様以後2千年が経っている私たちの時代にもまだ達していない終末を見据えている。
イエス様によって救いは開かれている。終わりの時に「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(32節)とは、私たちに与えられた救いは終わりの日にも耐え得るものであるということである。主の名を呼ぶはアブラハムの歩みに出てくる「主の御名を呼び求めた。」(創世記12:8)。この語は別訳に「主に祈った」とあり、礼拝すると言える。
何と素晴らしい約束だろうか。イエス様は主である、イエス様の御名を呼ぶ、私の主であると告白し、礼拝をささげる。終わりの日にも恐れる必要はない。神様を知らない人は怖じ恐れ、叫び声を上げるだろう。私たちも試練を通され、揺り動かされるだろうが、永遠の救いに与ることができる(ペテロ第一5:8~10)。

Ⅲ.主の日が完成する時
主の日はヨエル書全体で語られている。主の日について考えると、まず主イエス様が最初にお出でになった日のクリスマスである。イエス様が再び来られる日は再臨の日であり、その日時は父なる神様以外は誰も知らない。イエス様は主の日に既に来られ、主の日に再び来られる御方である。私たちはその中間の時を生きている。
聖霊が降ることによって預言し、夢を見、幻を見ると神様は語られる(28節)。今の時代では、預言は御言の解き明かしである。夢(ヤコブ、ヨセフ、マリアの夫ヨセフ…)、幻(多くの預言者、ヨハネの黙示…)と言う手段を通しても、神様は御心、御旨を啓示される。どのような手段を通しても、聖霊は私たちの進む道に確信と平安、力と喜びを与えてくださる。

聖霊がという所が大切である。人間の思い、考え、計画手段を越えて、神様の御業を個人個人に、教会に見させていただこう。