聖日礼拝説教要旨‘25.6.15
ウエルカム礼拝

聖書箇所:マタイ15:21~28

15:21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
15:22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
15:24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
15:25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」
15:26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
15:27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。

 

今日は父の日である。先月の母の日は教区講壇交換であり私は教会にはいなかった。今日は、父母の日の積りで話したい。

Ⅰ.カナン人の母親の苦しみ
イエス様は弟子たちを連れてツロ、シドンの地方に行かれた。現在のレバノンであり、イスラエルの国境の北、地中海の沿岸、フェニキア人の町になる。わざわざイエス様がイスラエルを離れられた理由は弟子たちと静かに話をしたかったからである。その話とはこれから起こる十字架を通しての救い、神様の真理であった。
そこに、この地方の女性が出てくる。娘の病気が重く、イエス様に癒してほしいと願ってやってきた。両親にとって子どもが重い病気になることは本当につらいことである。この女性はイエス様がイスラエルでされていたことを聞いていた。「ダビデの子よ」という呼びかけから、ダビデの末から救い主が生まれるという聖書の預言を知っていた。
イスラエルにとってダビデは今も偉大な王だが、カナン人にとってダビデは征服者である。近隣の国同士では片方で英雄でも、片方では侵略者という話はよくある。イスラエルと他国人は区別されており、ユダヤ人と関りを持つことは考えられないような状態ではあった。この女性が持つ娘が癒されるためにとの願いは、全ての壁を、妨げを超えていた。時代も、民族も関わりのない、全ての親が持つ思いであった。この女性がイエス様を信じて、藁をもすがる思いでやってきたことは大きな恵みになっていった。

Ⅱ.イエス様とのやりとり
イエス様は、「救い主イエス様、娘を治してください」と願う女性にどのように答えられたのか。そのやりとりの一回目はお答えにならなかった、無言のままだった。しかも弟子たちは、「あの女を去らせてください。」と厄介者、邪魔者扱いである。イエス様が口を開かれた二回目のやりとりは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」と語られた。イスラエルの人たちが第一で他国人は考えられないと言われた。私たちも冷たい答えだと思う。しかし、神様の働きは順を追って、漸次的にという面がある。イエス様の救いもイスラエルから始まって近隣へと広げられて行く。しかし、この女性は決してあきらめなかった。三回目のやりとりでイエス様は「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くないことです。」と言われた。これは二回目の言葉と同じ意味で、先ずはイスラエルの救いが大切だと言われた。
この女性はイエス様から3回、冷たい対応をされたが、決してひるまなかった。イエス様からの三回目の答えには手がかりが隠されていた。イエス様の「小犬」という言葉にある。新約聖書で普通に犬として使われる言葉には、良くない意味も含まれていた。小犬と言う言葉は家庭の中で飼われている愛玩犬のことを指している。この女性は「小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」と答えている。この女性にはパン屑ひとかけらのような小さなものであっても、大いなるイエス様の働きの中で、娘は癒されるという信仰があった。

Ⅲ.イエス様は高みへと導く
イエス様はこの女性の今の状況も、神様への思いも、全てをご存知であった。イエス様はすぐにでも娘を癒すことはできた。イエス様はあえてこの女性に冷たく見える言葉を語られた。この女性の信仰を明らかにし、さらに高みへと導くためであった。
他国人であっても信仰を誉められたのは、カぺナウムのローマ軍の百人隊長もそうであった(マタイ8:5~13)。ローマ軍の百人隊長の求めは一人の家来の癒しであった。イエス様の言葉には神様の権威があり、力があるという信仰であった。この女性はイエス様の愛は全ての人に届くものであり、力があるという信仰であった。イエス様はすでにイスラエル、他国人という区分を超えておられた。
イエス様はその人の内なるものを見られており、試練さえも通して、さらに信仰の高みへと引き上げようとされる。イスラエルの教師であっても新しく生まれることが分からなかったニコデモ、命がけで従うと言いながらイエス様を3度知らないと言ったペテロ、イエス様の復活を疑ったトマス、 …この女性の場合もそうであった。しかし、若き富める指導者の場合(マタイ19:16~他)は悲しみながら立ち去っている。私たちは試みや困難をどのように受け止め、どのように対処していくのか。神様の祝福につながっていくのか、苦しみや痛みに留まってしまうのか。イエス様は愛の眼差しをもって見つめられ、導こうとされている。
神様は私たちをご存知であり、耐えられない試練は与えられないことも事実である(コリント第一10:13)。どんなことがあっても神様の元にとどまること(ヨハネ15:4・5、ヨハネ第一4:15・16)が大切であり、神様の愛と真実を明らかにしてくださる。

今日、皆さんは神様の元におられる。私たちは人生のさまざまな荒波を通されるが、イエス様の元に留まった女性が神様の恵みに与ったように、神様から離れないで神様に求め続けよう。神様はより高い、より深い、より広く、より豊かな愛を表してくださる。