待降節第一聖日礼拝

イザヤ53:5~6

53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

本年のメサイア公演は12月13日(土)であり、開催まで後2週間ほどとなった。今回は25番合唱「われらは癒えたり」・26番合唱「迷える羊となり果て」が加わる。そこからの話をしよう。

Ⅰ.待ち望まれたメシア
メサイア25番はイザヤ53:5、26番はイザヤ53:6からの引用である。イザヤ書は預言書の中で特別な預言書である。特別であるという理由は幾つも挙げられるが、メシア預言が多く記されている。メシア(メサイアはメシアの英語読み)とは油注がれた者という意味である。旧約聖書では祭司、王、預言者らは頭に油を注がれて任命された。旧約聖書のメシア預言とは、やがて救い主が神様から任命を受けて来られることを指し示している。
旧約聖書の時代には国が揺れ動き、苦しい生活を強いられることも多く、メシア・救い主には現世的な利益を求める願いは強かった。

Ⅱ.苦難を受けるメシア
イザヤ52:13から53章全体は「苦難のしもべの歌」と呼ばれる箇所である。この苦難のしもべこそがメシア・救い主を指している。特に53:4~6が中心になるが、苦難のしもべは4節「病を負い」「痛みを担った」、5節「背きのために刺され」「咎のために砕かれた」とある。これらは苦難のしもべ自身の悪や不義ではなく、私たちという他者の悪や不義によって懲らしめられたという。イエス様の御姿そのものである。
イエス様はどんな病気の人にも近づかれ癒され、心弱り、痛む者を励まし強められた。しかし、その最後は何の罪もなく捕らえられ、むち打たれ、辱めを受けられた。十字架に付けられ、ローマ兵の槍に刺され、粉々に砕かれるような死を経験された。
友人の牧師から、フランスのコルマールという小さな町の美術館で16世紀ドイツの画家グリューネバルトの代表作とされるイーゼンハイム祭壇画を見たという話を聞いた。第一面はイエス様の十字架の場面である。むごたらしい死の姿であるが、何とイエス様が中世ヨーロッパを脅かしたペストに覆われている。この絵はイエス様がどんな病、どんな痛み苦しみも身に負われる姿を表している。この絵を見た人は不思議な癒しに包まれると言う。… イエス様への懲らしめが平安をもたらす(5節)。イエス様は十字架でなされた贖いによって、私たちに神様との和解、平安を与えてくださる(ローマ5:1)。

Ⅲ.栄光を受けられたメシア
イエス様は私たちの悪や不義の身代わりとして、十字架の苦しみによって救い主としての働きを全うされた。この世の救い主として神様の栄光を表すためであった(ヨハネ17:1~3)。神様の栄光は私たちの救いにあると言う。私たちはここまで備えてくださった神様に感謝し、信じて受け止める以外に神様に報いる術はない。
しかも、私たちは神様と出会う前、イエス様を救い主と信じる前は、6節「羊のようにさまよい」「自分勝手な道に向かって行った。」のであった。イエス様を救い主と信じることによって、神様は私たちを御国への歩みに導いてくださる。
イエス様は十字架の死の3日後によみがえられ、やがて天に帰られた。その後に弟子たちに聖霊が降って、教会の働きが始まる。使徒の働きの8章にはピリポが神様に示されてガザに下る道で帰国するエチオピアの高官にイエス様を伝えた。この時、エチオピアの高官はイザヤ書53:7・8の苦難のしもべの歌を読んでいた。ピリポはこの高官にイエス様の救いを説き明かした。イエス様を救い主と信じたこの高官は水のある場所で洗礼を受けた。この高官は喜びながら国へと帰って行ったとある。

神様はいつでも救い主イエス様を通して、救いの栄光を表そうとされている。今年のメサイア公演に苦難のしもべであるイエス様の楽曲が加わることは意義深い。メサイア公演やクリスマスの諸行事が救い主イエス様を表し、救いに与る方々が起こされていくように共に祈りながら備えよう。