聖書箇所

ヨハネ第二7~11

1:7 こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。
1:8 気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。
1:9 だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。
1:10 あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。
1:11 そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。

ヨハネ第三1~8

1:1 長老から、愛するガイオへ。私はあなたを本当に愛しています。
1:2 愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。
1:3 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。
1:4 私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。
1:5 愛する者よ。あなたは、兄弟たちのための、それもよそから来た人たちのための働きを忠実に行っています。
1:6 彼らは教会の集まりで、あなたの愛について証ししました。あなたが彼らを、神にふさわしい仕方で送り出してくれるなら、それは立派な行いです。
1:7 彼らは御名のために、異邦人からは何も受けずに出て行ったのです。
1:8 私たちはこのような人々を受け入れるべきです。そうすれば、私たちは真理のために働く同労者となれます。

イエス様の愛弟子ヨハネは新約聖書に5つの書巻を残した。福音書、手紙を3通、黙示録である。多様、多彩な内容であるが、ヨハネの信仰、思想は一貫している。福音書、ヨハネの手紙第一、黙示録はよく読まれる。ヨハネの手紙第二、第三は聖書通読以外ではなかなか読まれない。他の多くの手紙より短い、内容も個人的、宛先も限定的だと受け止められる。聖書66巻に含まれていることは、御言としての重みは他の書巻と変わらない。

Ⅰ.真理に生きる信仰者
第二の手紙には真理が4回出てくる。第三の手紙は真理が5回出てくる。短い2通の手紙の中に真理という共通の強調点がある。第二の手紙の宛先は選ばれた婦人たちとその子どもたちへとある。第二2節「真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。」とある。宛先が女性と子どもたちという手紙は聖書では珍しいが、真理に生きていることが大切である。
第三の手紙はガイオという個人に宛てられている。ガイオというギリシャ系の名前は多く、新約聖書に3人出てくる(在マケドニア・使徒19:29、在デルベ・使徒20:4、在コリント・コリント第一1:14)。この手紙の宛先は3人の内の誰かか、別のガイオかも知れない。ガイオが誰かよりも大切なのは、第三3節「あなたが真理に歩んでいること」である。
ヨハネは真理に生きている信仰者に性別、年齢に関係なく心からの励ましの手紙を送る。

Ⅱ.偽りに落ち込む不信者
第二7節には信仰者を惑わす偽教師が大勢出て来たとある。彼らはイエス様が肉体を持ってこの世に生まれたことを否定する者たちであった。ヨハネ手紙第一1:1~3でヨハネは最初に言っている。イエス様は永遠の存在だが、自分たちは声を聞き、目で見て、手でさわりさえした。イエス様が同じ肉体を持って生まれたことを証ししている。この明らかな惑わしを第二7節「反キリスト」と述べている。反キリストはヨハネの特徴で手紙第一・第二に4回のみ出てくる。イエス様の再臨、終末とつながっていく中で起こってくる。
第三9節のディオテレペスは教会の働き人だが私利に走り、人をののしり、働きの邪魔立てをしている。神様の働きを止めようとする者たちがあったとしても、忍耐を持って善を行い、真実に生きることが求められている。終わりが近い時代こそ、そのような希望を持って主に仕える生き方が大切である。

Ⅲ.交わりの中におられる神様
ヨハネの時代、伝達の媒体は紙、墨、筆であったことが後書きで分かる。伝えたいこと、書き送りたいことは沢山あるがそれをしない。ヨハネは直接に会って話し合いたいと言う。ヨハネと手紙を送った信仰者たちの愛の交わりを覚える。ヨハネ手紙第一4:12に「私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」とある。神様は私たちが愛し合えば、私たちの真中に豊かに住んでくださる。敵意、悪意、ねたみ、そしり、分派等分断するものがあるならば神様はそこに留まれない御方である。私たちの間に神様がおられるのであれば、私たちの内には神様にある喜び、平安、感謝があふれてくる。
私たちの間に神様が豊かにおられることを世に表すことが、私たちの使命である。神様はどこにおられるのかという問いに、私たちの間におられ、私の内におられると答えられるものであろう。

ヨハネ第二、第三の手紙を開いた。聖書は時代を越え民族を越え、全ての人のために記された。全ての人に当てはめられ、全ての人に神様の愛と恵みを届ける。同時に、私という個人に宛てられ、常に私という個人に語られている。神様でなければなされない不思議な語りかけが、いつでも私の側にあることは何という幸い、何という喜びであろうか。