聖 書:第一コリント15:1~12

(1) 兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。
(2) もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
(3) わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
(4) そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
(5) ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。
(6) そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。
(7) そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、
(8) そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。
(9) 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。
(10) しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。
(11) とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。

キリストは復活された後、その復活体を40日間にわたってマグダラのマリヤ、ペテロ、ヨハネなどに現されました。パウロは「ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。」と記しています。
顕現とは、神がご自身を目に見える形で現されることです。旧約時代には、神は直接に、夢で、幻で、主の使などを通してご自身を現されました。しかし新約時代には復活体をもってご自身を現されました。そのことによって人々がキリストの復活を信じ易いように助けられました。弟子たちも顕現されたキリストに出会うことによって復活を確信すると共に、復活信仰がより確固なものとなったのです。

Ⅰ.復活の確証としての顕現
キリストの顕現は人々の願望によったものではありません。そうであるならば単なる幻覚現象に過ぎません。聖書は「イエスはまずマグダラのマリヤにご自身を現された」(マルコ16:9)、「語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた」(ルカ24:15)と記しています。パウロはキリストの十字架、復活、顕現について「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった」(3)と言明し、また「このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒17:31)と記しています。

Ⅱ.個人に対する顕現
聖書は、キリストの顕現を個人的な経験として取り扱っています。「一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」(ヨハネ20:19)のです。また、「五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた」とも記されています。こうした記事によりますと、個人的ではなく、団体的に顕現されたように思われますが、それは決して十把一絡げではないのです。失われた一匹の羊を九十九匹の羊を野において探し求められるキリストは、どのような場合でも一人をおろそかに扱われるお方ではありません。キリストの愛の眼差しはいつの場合でも、個人に向けられているのです。

Ⅲ.永続的な顕現
復活の主の顕現は決して一時的なもの、一過性のものではありません。それが人間の願望によるものであれば、いつしかその感激、感動は消えてしまうことでしょう。しかしキリストの顕現はキリストの主権による顕現であったが故に、彼らは迫害をものともせず、キリストの証人として最後まで主にお仕えして行くことが出来たのです。
キリストの顕現は、キリストの復活の確証にとどまらず、聖霊降臨の備えのためでもありました。十字架、葬り、復活、顕現、昇天、そして聖霊降臨は、すべてが私たちの救いのために神がもくろまれたご経綸でありました。それ故に彼らの命がけの宣教によって福音は世界中に宣べ伝えられ、殉教者の血は教会の種子となって今日に至っているのです。
私たちも個人的にキリストの顕現に触れ、天国に凱旋するまで、永続的に臨在されるキリストと共なる生涯を送る者とさせて頂きたく願います。