聖 書 ルカ19:45~20:19

(45)それから宮にはいり、商売人たちを追い出しはじめて、(46) 彼らに言われた、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」。(47) イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者また民衆の重立った者たちはイエスを殺そうと思っていたが、(48) 民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手のくだしようがなかった。(20:1) ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、(2) イエスに言った、「何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、わたしたちに言ってください」。(3) そこで、イエスは答えて言われた、「わたしも、ひと言たずねよう。それに答えてほしい。(4) ヨハネのバプテスマは、天からであったか、人からであったか」。(5) 彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。(6) しかし、もし人からだと言えば、民衆はみな、ヨハネを預言者だと信じているから、わたしたちを石で打つだろう」。(7) それで彼らは「どこからか、知りません」と答えた。(8) イエスはこれに対して言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。(9) そこでイエスは次の譬を民衆に語り出された、「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し、長い旅に出た。(10) 季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を出させようとした。ところが、農夫たちは、その僕を袋だたきにし、から手で帰らせた。(11) そこで彼はもうひとりの僕を送った。彼らはその僕も袋だたきにし、侮辱を加えて、から手で帰らせた。(12) そこで更に三人目の者を送ったが、彼らはこの者も、傷を負わせて追い出した。(13) ぶどう園の主人は言った、『どうしようか。そうだ、わたしの愛子をつかわそう。これなら、たぶん敬ってくれるだろう』。(14) ところが、農夫たちは彼を見ると、『あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と互に話し合い、(15) 彼をぶどう園の外に追い出して殺した。そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。(16) 彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。人々はこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。(17) そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。(18) すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。(19) このとき、律法学者たちや祭司長たちはイエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた。いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟ったからである。

聖書で権威といえば、多くは“神の権威”であり、“権威ある者”とは、神ご自身です。ユダヤでは最高議会(サンヒドリン)によって、祭司長、律法学者らは“権威ある者”とされておりました。
Ⅰ.宮きよめ (19:45~46)(マルコ 11:15~18は同記事)
イエスさまが十字架にかかられる6日前の出来事です。当時、神殿内では、犠牲の献げ物の販売や両替手数料などで莫大な利益をえるような商売が公然と行われており、宗教指導者たちも、これらを暗黙のうちに容認していました。イエスさまは、こうした不正を行う商売人を追い出されたのです。
Ⅱ.権威問答 (20:1~8)
危機感をもった宗教指導者たちは、イエスを亡き者にしようとして、イエスさまに立ち向かい、課題をもちかけたのです。
「これらのことは、何の権威によってするのか。また、そうする権威は誰から与えられたのか。(20:3) 」との質問に対し、イエスさまにバプテスマのヨハネについて逆質問され
ると、彼らは返答に行き詰まり、後退してしまったのです。
Ⅲ.悪い農夫のたとえ (9~19)
イエスさまは、この譬から、彼らの質問に答えられたのです。このたとえの中で、「ぶどう園」はイスラエルを、「主人」はイスラエルをお選びになられた神を、「農夫」は権威あるサンヒドリンの宗教指導者を、「僕」は預言者を、それぞれ指しています。
イエスさまは、さらに、御自分の十字架と復活を予告されておられます(17~18)。「ぶどう園の主人は、収穫時になったので 一人の僕を送りましたが、袋だたきにされ、から手で帰されてしまいました。続けて送った僕たちまでも辱めを受け、傷を受け、同じようにされたのです。それで、主人は、自分の息子なら敬ってくれるだろうと思い、遣わしましたが、農夫たちは、これ幸いと その息子を殺してしまったのです。この主人はどうするか。当然、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人に与えてしまうでしょう」と。 
つまり、「神の祝福がイスラエルから取り上げられ、あなたがた以外の人たちに与えられるようになる」と仰せられました。すると、民衆は、「そんなことがあってはなりません(16)」と言ったのです。  
続いて、イエスさまは、「家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。・・・すべて その石の上に落ちる者は砕かれ・・・粉みじんにされるであろう(17~18)」と仰せられました。これは、「復活の主に挑みかかる者は砕かれ、吹き飛ばされてしまうのだから、捨てられた石(キリスト)につまずかない者は幸いだ」ということです。
宗教指導者たちは、自分たちを指して語られたことを知り、イエスを捕らえようとしましたが、 民衆を恐れて果たすことができなかったのです(9)。
私たちは、常に権威あるおことばに耳を傾け、人生の権威となって下さった主に従い、隅のかしら石であるキリストの上に建て上げて下さる信仰を堅持し、勝利ある信仰生涯をまっとうしてまいりましょう。
キリストに寄り頼む者には、失望に終わることがないのです。(ローマ9:33)