聖 書 使徒信条
使徒信条の第二項はイエス・キリストについてです。
1.『我はその独り子イエス・キリストを信ず』
 イエスという名は『神は我が救い』という意味です。主はまさにその意味を体現なさった唯一のお方です。キリストはヘブル語のメシヤのギリシャ語訳で『油注がれた者』を意味します。旧約時代に油注がれたのは、王、祭司、預言者でした。主はその三つの働きをになっておられたのです。父と御子は本質において一つ、神は御子においてご自身を啓示し、神の救いは御子によって現れました。神様の愛を人間に示す為に、イエス様は人間となって来て下さったのです。イエス様は力と権威をもっておられる神ご自身です。
2.『主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ』
 この箇所は、キリスト教のつまづきといわれるくらい現代人には受け入れがたいものでしょう。しかし科学者にクリスチャンが多いといわれますが、本当に科学を究めていくときに、限界に気付き神の存在を認めると聴いた事があります。処女降誕は、全能の神様のなせる業です。そしてそれは、イエス・キリストが神であり人であることの奥義です。そしてイエス様が真の人間となって下さったことによって、私たちは真の人間とは何かを見ることができます。また「お言葉どおり、この身になりますように」というマリヤの信仰と従順は、信仰者への手本でもあります。
3.『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり』 
ローマ総督ピラトの名前があるのは、主の受難の年代を確かにします。人類を救うために、神は独り子を人間とし、それに人間の罪を負わせ、身代わりに裁くことにより、本来自分の罪のために死ぬべき者が、赦されると言う、考えられないようなことをなさったのです。罪に対する神の怒りを、イエス様はご自分で全部引き受けて下さったのです。主は、十字架の上で肉を引き裂かれ、唯一信頼していた父から捨てられ、完全に死なれ、陰府にまでも下ってくださいました。
私たちのために、私たちに代わって神の子が、十字架の上ですべてを耐え、私たちに罪の赦しを宣言して下さったのです。
 私たちはこのことを信じ、告白しています。日々神様から注がれる無条件の大きな愛に気付かせていただき、もっともっと感謝しましょう。そして聖霊様の助けをいただいて、今年もこの大きな愛を他の人々にも述べ伝えていきましょう。