聖 書 ピリピ1章12節~17節

12 さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。
13 すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、
14 そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった。
15 一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。
16 後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、
17 前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。

 「パウロの身に起ったこと」、それはエルサレムで捕えられ、カイザリヤで2年間囚人生活をし、そののちローマヘ護送され、その途中で難破し、マルタ島に漂着してやっとローマにたどり着くという大変な経験でした。どれをみても、喜ばしいことは何一つありません。また、ローマに着いて、囚人から解放されたわけでも、裁判が解決したわけでもありません。それでも、福音の前進に役立つようになったとパウロは語るのです。福音の前進に役立つとは、どういう意味でしょうか?
1.神の言葉はつながれていない
 パウロが捕われの身であることは、決して福音の前進とは結びつかない、むしろ妨げと思われるようなことです。ところが、パウロは、「捕われていることはキリストのため」というのです。それは、捕われているときにこそ伝えることのできる人がいるといっているのです。どういう人かというと、パウロを終日監視している衛兵たちであり、またパウロを裁く裁判官たちでした。前者は、否が応でもパウロの人となりに触れますし、後者はパウロを裁くためにキリスト教を学ばねばなりません。パウロが伝えたいと思っていた人ではありませんでした。しかし、パウロが捕われの身になって、はじめて出合うことのできる人、キリストを伝えることのできる人を知って、パウロは喜んでいるのです。
2.兄弟たちが確信をもって生きるようになった
 パウロが捕えられたという事実は、人々を励ますようなものではありません。むしろ、失望させ、悲しみと不安をもたらすようなものです。しかし、ここでは兄弟たちが確信を得たというのです。それは、パウロが捕えられても、神の言葉はつながれることなく、のべつたえられていること、福音宣教は後退しているのではなく前進していることを証詞し、喜んで生きているパウロの姿に励まされたのです。パウロの経験を通して、困難の真っ只中にも神の恵みはあること、神の深い摂理と導きがあることを知って、兄弟たちは、失望、不安な状態から、喜びと確信をもって生きるようになっていったのです。
3.益々勇敢に神の言が語られるようになった
 パウロが捕えられたら、やはり自分たちにも同じ災いが降りかかってくることを考えずにはいられなかったことでしょう。キリストを伝えていると、やがて自分たちもパウロと同じように捕えられてしまうという不安が起って当然でしょう。そのため、キリストを伝えることをやめたくなるものです。しかし、彼らはその逆でした。ますます、勇敢に語るようになったのです。なぜでしょう?それは、たとえ捕まっても、キリストを伝えることにおいて妨げられることは何一つないことを知ったからです。パウロが捕われの身でありながら自由であったように、迫害という災いがこの身に降りかかってきても、キリストにある自由は奪われることはないことを知って、喜んで伝えていったのです。
 パウロはわが身に起った明らかに災いと思えるような出来事の中で、神のご意志と導きを得ることができました。それは、自分の身に起ったことを閉鎖的に見るのではなく、自分のおかれた環境が、新しい働きの分野を必ず切り開いていくものと信じてみていました。理想的な環境でなくても、そのなかで神がしようとしておられることを喜ぶとき、福音の前進のために何一つ役立たないものはないことがわかるのです。