聖書:ヨハネ1章1節~13節

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は初めに神と共にあった。
3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
8 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

 キリストがこの世に来られたことによって、神秘的な世界であった神についてはっきりと啓示され、知らされました。神が人々に対してどのように感じ、又願っておられるか、人々にわかるようにイエスのうちにのみ完全に啓示されたのです。ヨハネは、このキリストが「光」としてこられたと語っています。その光はやみの中に輝き、すべての人を照らすまことの光だというのです。
1.やみの中に輝く光 
 私たちの住む世界は、闇そのものです。悪が満ち溢れ、苦しみ、痛みが絶えません。そして、この世にある光は、頼りにならないものです。蛍光灯は人間社会に大きな貢献をしましたが、電線が切れ停電すれば意味がありません。そんなとき懐中電灯は頼りになりますが、電池が切れれば使いものになりません。この世の光は一時的で永遠ではないのです。イエス様の命の光は永遠です。また、ここまでは届かないと思うようなところにまで届く光です。この世の混沌の中から、私たちを救う光なのです。私たちの人生には不安、恐怖、激情、欲望など、私たちの魂を暗黒に突き落とす様々なものがあります。しかし、このようなものがあっても大丈夫なのです。キリストの光が届くとき、私たちのうちに生きる力が注がれ、やみに捕らえられることなく、キリストの輝きを宿すことができるのです。
2.すべての人を照らすまことの光
 光は、隠れたものを明らかにする働きがあります。仮装し、偽り、誤魔化してもキリストの光の前には、それらはいっさい無駄です。その秘密はあばかれ、裸の状態にされます。それは、なんだかむごいことをされるように思われるかもしれませんが、キリストの光は、私たちに真の姿、真の価値を示し、神に造られたものにふさわしく歩むことができるようにと愛をもって導く光なのです。また、無知であったものに悟りを与え、迷う者を真実に導く光です。人は罪深く、その本性のうちに潜む道徳的矛盾に気づかないものです。これを気づかせてくださるのも、キリストの命の光です。そして、どのように歩むのが最善であるか、全くわかっていないような、無知なものを忍耐と憐れみとをもって導かれるのです。
 この世のすべての光よりも純真な光によって、人は神の言によって造られた世界を正しく見ることができ、そこに働いている神の業、神のみ旨を知ることができるのです。そしてもはや闇の中を歩むものではなく、自らが主によって光の子として歩むばかりか、人々の前に輝く光として、私たちをこの時代の中で用いてくださるのです。それは人々が天地創造の神を崇めるためなのです