聖書:創世記 39章1節~6節、19節~23節

1 さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った。
2 主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。
3 その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。
4 そこで、ヨセフは彼の前に恵みを得、そのそば近く仕えた。彼はヨセフに家をつかさどらせ、持ち物をみな彼の手にゆだねた。
5 彼がヨセフに家とすべての持ち物をつかさどらせた時から、主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ。
6 そこで彼は持ち物をみなヨセフの手にゆだねて、自分が食べる物のほかは、何をも顧みなかった。さてヨセフは姿がよく、顔が美しかった。
19 主人はその妻が「あなたのしもべは、わたしにこんな事をした」と告げる言葉を聞いて、激しく怒った。
20 そしてヨセフの主人は彼を捕えて、王の囚人をつなぐ獄屋に投げ入れた。こうしてヨセフは獄屋の中におったが、
21 主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。
22 獄屋番は獄屋におるすべての囚人をヨセフの手にゆだねたので、彼はそこでするすべての事をおこなった。
23 獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた。

 二つの箇所で「主がヨセフと共におられた」、「人々が彼に全てをゆだねた」ことが共通である。どうして神様はヨセフと共におられ、至るところで彼を助けて下さったのか?また彼と出会った人々はどうして、彼に全てをゆだねることが出来たのか?今日は二つの箇所で「主が共におられる:4回」、「彼の手にゆだねる:3回」、「主が栄えさせられた2回」繰り返すが、その中で「主が共におられる」と「彼の手にゆだねる」の部分を黙想しよう。
1.主が共におられる(39:2,3,21,23)
 主がヨセフと共におられる一番の理由はアブラハムの約束が実現されるためである。神様はアブラハムに「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」と祝福して下さったが、ヨセフの時代にそれがある部分現実になった。ヨセフが祝福されることによって、家族が守られて一つになり、世界が飢饉から救われるようになった。神様の約束は時間と共に少しずつ明らかになっていく。ヨセフは先祖アブラハム時代からの約束を彼のみことばとして受け入れた。ヨセフが「あなたによって祝福される」と言うみことばの本人になる為に彼がしなければならないことが二つある。
1)一つ目は神の祝福を家族と世界に与える通路として用いられること。
2)二つ目のことは家族全体を益とするために代わりに十字架を背負うことだった。
2.彼の手にゆだねる(39:6,22)
 ポテパルは家の全てを、獄屋番は獄屋の全てのことを、パロは国の全てをヨセフにゆだねた。その理由は何か?ヨセフはポテパルの家では奴隷に過ぎない人だったし、獄屋では囚人に過ぎなかったし、エジプトでは外国人に過ぎなかったし、ヤコブの家では十一番目の子供に過ぎない人なのにどうして彼と関係する人は彼の手に全てをゆだねたのか?
1)息子なのに親の心で働いた。
2)奴隷なのに主人の心で働いた。
3)部下なのに最高責任者の心で働いた。
4)人間なのに神のみ心に従って働いた。
 どうすれば私達も彼の心を持てるのか?ヨセフは何よりも信仰の故にこのようなことが出来たと思う。「39:9神に罪を犯すことができましょう」人は見ていなくても神様はご覧になっていらっしゃる。この信仰が彼の重要な価値基準であった。主にあって生きる、その信仰が彼に正しい価値観を与えた。この信仰があるとき、偏見から解放される。主の助けを待ち望む信仰がないとこの世は全てが間違いと偏りしか見えない。私達も祝福される為、幸せになる為、主に用いられる人になる為、ヨセフのような信仰の価値観を持ちたい。