聖書:エペソ 5章1節~5節

1 こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
2 また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。
3 また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。
4 また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。
5 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。

 親の愛を自分の子供に伝えられない。親として子供をどう愛していいのかわからない。子供を愛するということに対して親が悩み、苦闘しているならいいのですが、親の愛が子供に伝わっていないことに全く気づかない親が多いように思います。家族関係が壊れていくなかで、必要なものは本物の愛です。エペソ人への手紙五章で愛のうちを歩めと語ったパウロは、キリスト者に何を求めているのでしょうか?
1.愛されていることを知る
 1節に、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさいとパウロは、勧めています。「神にならう」とは、神に従う、服従することを強いられているように感じてしまいがちです。しかし、この言葉は、前の「神に愛されている子供として」という言葉が重要なのです。パウロは、神に愛されているかどうかわからないものに語っているのではありません。イエス様の十字架を通して、その愛を良く知っているものに語っているのです。つまり、神に愛されている事実に従って生きていきなさいということです。神に愛されていることがわかったならば、神のご意志に、また語りかけのとおりに歩みたいという心が生れるものです。愛されているという体験は、愛してくれている相手に具体的な思いが起こるのです。神のようになれるから、従うのではありません。神が愛してくださっているから、それも私の最善をいつも考えておられるから、いわれるとおりに生きてみようという行動なのです。
2.愛の道を選んで歩む
 イエス様が私たちに具体的に示してくださった愛のしるしは、十字架です。この十字架にかかってくださったとき、イエス様は、苦闘しながらも罪人を愛する道を選びとってくださいました。パウロは、そのことを「ご自身をかんばしいかおりのささげ物、またいけにえとしてささげられた」と言っています。犠牲を払うことは、イエス様であっても簡単なことではありませんでした。苦闘しながら選びとる生き方を私たちに見せてくださいました。愛を行なう生活は、簡単で、楽な生活ではありません。神が求められる愛は、敵をも愛しなさいという崇高な愛です。それを思うと怖気づき、とても無理だと思ってしまうとき、すでに愛の道を歩むことを拒否しているのです。私たちが十字架を知るとき、イエス様は苦闘しながらも選びとっていかれたように、私たちも自分には愛などこれっぽっちもないものであっても、神よ、あなたの愛で私を満たし、あなたの手の一部として私を用いてくださいと祈るとき、私たちは、自分をかんばしい神へのささげものとして差し出すことができるのです。
 愛のうちを歩く・・・それは、特別な日の特別な行動ではなく、ありきたりの平凡な生活の中で、イエス様の愛を深く思いながら、小さな業の中に神ご自身の愛を注いでいただいて生かされていくことなのです。