聖書 マタイによる福音書10章16~33節、エレミヤ書20章7~13節

10:16 わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
10:17 人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。
10:18 またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。
10:19 彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。
10:20 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。
10:21 兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。
10:22 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
10:23 一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。
10:24 弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。
10:25 弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。
10:26 だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
10:27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。
10:28 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
10:29 二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。
10:30 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
10:31 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
10:32 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。
10:33 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。

20:7 主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従いました。あなたはわたしよりも強いので、わたしを説き伏せられたのです。わたしは一日中、物笑いとなり、人はみなわたしをあざけります。
20:8 それは、わたしが語り、呼ばわるごとに、「暴虐、滅亡」と叫ぶからです。主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけりになるからです。
20:9 もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火の/わが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。
20:10 多くの人のささやくのを聞くからです。恐れが四方にあります。「告発せよ。さあ、彼を告発しよう」と/言って、わが親しい友は皆/わたしのつまずくのを、うかがっています。また、「彼は欺かれるだろう。そのとき、われわれは彼に勝って、あだを返すことができる」と言います。
20:11 しかし主は強い勇士の/ようにわたしと共におられる。それゆえ、わたしに迫りくる者はつまずき、わたしに打ち勝つことはできない。彼らは、なし遂げることができなくて、大いに恥をかく。その恥は、いつまでも忘れられることはない。
20:12 正しき者を試み、人の心と思いを見られる万軍の主よ、あなたが彼らに、あだを返されるのを見せてください。わたしはあなたに、わたしの訴えを/お任せしたからです。
20:13 主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主は貧しい者の命を、悪人の手から救われたからである。

 金言の御言はCS時代の私にとって不思議な響きを持つ御言であり、どこか心に残るものがあった。それは心に残るというよりも、心に刺さるという表現に近いと思う。最近、たびたび心に浮かぶ御言の一つである。この世が闇を深め、悪の力が私たちを引き込もうと徘徊としている時代だからではないかと思う。私自身もいつの間にか、この世に迎合し、取り込まれてしまっているのではないかという危機感を覚える。
Ⅰ.賢い羊、賢いハトであれ(マタイ10:16)
 イエス様が弟子たちを遣わそうとされた時、イエス様を信じるものはわずかな一握りであった。キリスト教など一体何なのか誰もわかっていなかった。イエス様が弟子たちに、「羊をおおかみの中に送るようなものである」といわれたことは決して誇張ではない。今は、クリスチャン人口は推計で、世界で20億人であり、最も大きな宗教である。日本ではキリスト教のことを、全く何も知らないという人はいないであろう。信じる、信じないは別にしても存在は認められている。だが、この言葉はイエス様当時から、現在もそうは変わらない気がする。「だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ」と続いて語られた。へびは悪魔のように邪悪な存在に思え、はとは天使のような清らかな存在に感じる。クリスチャンはただ、お人好しで、弱々しく、侮られる存在ではなく、素直であっても、賢く身を処するものであることをイエス様は求められている。エペソ5:15、16(新約p.306)には、賢い者のように歩き、今のときを生かして用いるものであれと語られている。
Ⅱ.迫害が起こっても(マタイ10:17~23)
 しかしながら、イエス様の福音に生きるクリスチャンであることで、衆議所に引き渡されるとある。衆議所とはおのおのの町にある地方裁判所のことである。ムチ打ちの刑は衆議所で決められた。クリスチャンであるということで、裁判にかけられ、長官や王の前にも引き出されるとある。迫害が起こることが、すでに初めからイエス様の口によって語られている。ヨハネによる福音書15:18~21(新約p.167)にも、世があなたがたを憎む前にイエス様を憎んだということ、あなたがたはこの世からでたものではないということが語れている。
だが、迫害が起こる時にはかえって、大きな証しの機会となる。長官や王の前でイエス様の福音を語ることなど、普段ならありえないことである。そのときにこそ聖霊は、臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊であることが明らかにされる。私たちは恐れることはない、心配することも、あらかじめ準備することもない、聖霊が言葉を備え、力を与えてくださる。私たちの内に、聖霊が生きて、働かれることを祈り求めよう。最後まで耐え忍ぶものとあるように、迫害は終末にいたるものである。最後まで神様は、より頼む者を守り通して救ってくださるのである。
Ⅲ.恐れることはない (マタイ10:24~33)
 迫害と困難が予告されているのだから、私たちは恐れを覚える。24節以下に恐れることはないと3回出てくる。恐れなさいということは28節に1回出てくる。私たちは恐れなくてもよいものに振り回され、本当に恐るべきものを恐れないものである。本当に恐るべきものを恐れるなら、この世に恐るべきものはなくなる。本当に恐るべきお方は神様であり、私たちがいたずらに恐れやすいのは、この世や、背後に働く悪の力である。
 なぜ、いたずらに恐れなくても良いのか。その第一番目の理由は、弟子はその師以上のものではないとある。私たちの師となるべき御方はイエス様である。イエス様が生涯に受けられた苦難、その最後の十字架は、この世のあらゆる苦難を超えている。私たちがたとえどんな苦難に会おうとも、イエス様はそれを経験し、打ち克ってくださっている。この御方がかえりみてくださるのだから、恐れなくとも良いのである。Cf.多くのクリスチャンは病気や困難にイエス様の受けられた苦しみを思う。… 第二番目の理由は、隠されているもので明らかにされないものはないということである。神様の前に、他人には解らなくとも忠実に、真実に歩んでいれば、心安んじていることができる。他人から誤解され、非難されたとしても恐れなくともよいのである。第三番目の理由は、悪魔は体に危害を加えることはできても、魂にまで危害を加えることはできないのである。Cf.ヨブの話、ヨブの外側のものは取り去られる、体は頭の先から足の裏まで病んだ。魂にまで悪魔は届けなかった。… 第四番目の理由は一羽のすずめ、髪の毛の一本にいたるまで神様は目を止めてくださっているということである。万物を造られた偉大な神様は、尊大なお方ではなく、心細やかな愛を表してくださる御方である。恐れに捉われやすい私たちに、イエス様は、何重にも恐れることはないと語られている。
結 論(エレミヤ20:7~13)
 さらにエレミヤ書に目を止める。エレミヤは涙の預言者と呼ばれるが、イスラエルの亡国を語らなければならなかった預言者である。今日の箇所にもエレミヤへの人々のあざけり、はずかしめ、たくらみを見る。悪の力に取り囲まれていても、エレミヤの内には御言からの熱いたぎりがあった。私たちも外に恐れを感じる。私たちの内に御言は熱く燃え、自らに迫っているだろうか。どんなに恐るべきものであっても、私たちの魂に危害を加えるものはこの世にはない。聖霊と御言という、神様の愛と守りの内に、力をいただいて歩もう。