聖 書  イザヤ書11章1節~5節 

1:エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、
2:その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
3:彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、
4:正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの/柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。
5:正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。

 木が切り倒された後に残る切り株は、なんとも惨めな姿として映ります。イザヤを通して神様は、メシアがどういう方であるかを切り株からでる若枝の芽として描いてくださいました。それは、死から命を勝ち取る救い主の姿です。イザヤは、若枝の上に主の霊がとどまると預言しました。イエス様に注がれた霊の賜物がどういうものであるかを学びたいと思います。
Ⅰ.知恵と悟りの霊
 知恵とは、心にある目的を達成するために、正しい方法を用いることができる資質をいいます。神のご計画が実行されるに当たってその最善の目的のために最善の手段を選ぶことができる力です。悟りとは、一般的な知識だけでなく、識別力です。物事の違いを見分け、優れたものを認める力です。イエス様は、ご自身を遣わされた方の御心を知り、その実現のために最善の道を選び取られる方でした。
Ⅱ.深慮と才能の霊
 深慮というのは、他の人々に知恵を授け、正しく導くことのできる能力を言います。才能とは、 物事を決断していく強さだけでなく、物事を完成に導く力です。イエス様は救いの計画を全うするために、悠然とあらゆる困難や危険にあたられました。また弟子たちを訓練なさいました。大胆におそれることなく、勇気を出して、その計画を達成されたのです。
Ⅲ.主を知る知識と主を恐れる霊
 主を知る知識とは、神様に関わる事柄、神のご計画、神のみこころを知ることです。神がどういう方であるか、神様はどのように計画なさるのか、神の思いはどこにあるのかを知ることです。主を恐れる霊とは、神をこよなく愛し、恐れ、敬うことです。神のなさることが一番だと確信することです。神をこわがることではありません。偉大なお方を偉大なお方としてあがめ、敬うことです。イエス様は、絶えず父なる神に祈り、そのみこころを求め続けられました。そして、神のなさることにおそれおののいてお従いなさったのです。
 イエス様は、神の霊に満たされ、その霊が内にとどまりました。そして、福音宣教のわざを行なわれました。神様は、ご計画を実行するに当たって、その器たちを目的にかなって用いられるために、聖霊を豊かに注いで、必ず必要な賜物、資質を備えられます。私たち一人ひとりが、キリストの生きた証人となるために、主に注がれた霊的賜物を頂いて、主に用いていただきましょう。