聖 書  ルカによる福音書  1章24節~25節、39節~45節 

24:そののち、妻エリサベツはみごもり、五か月のあいだ引きこもっていたが、
25:「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」と言った。

39:そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、
40:ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。
41:エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、
42:声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。
43:主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。
44:ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。
45:主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。

 祭司ザカリヤとその妻エリサベツは、神の前に忠実に歩む二人でしたが、残念なことに子供はなく、すでに二人とも年老いていました。ある日、御使いガブリエルが、メシヤの先駆者として、ヨハネが生れることをザカリヤに告げたとき、ザカリヤは不信仰のためにものがいえなくなりました。ザカリヤの妻エリサベツは、この預言に対してどのように応えていったのでしょうか?彼女の信仰を学びたいと思います。
Ⅰ.主を待ち望む信仰
 ザカリヤ以上に、エリサベツにとって、年老いて子供が生れるという預言は、衝撃的なものだったことでしょう。彼女は、五ヶ月の間、引きこもった(24節)とあります。不妊の苦しみに堪えて生きてきたエリサベツにとって、衝撃的な知らせもすぐさま喜びに変わったことでしょう。しかし、周囲の人の理解というものは、自分と同じとように理解するとは限らないものです。子を産むこと、これは大きな喜びですが、年老いて産むということにおいては、なんとも気恥ずかしい思いがしたことでしょう。いずれにしても、エリサベツは5ヶ月間、じっと家にとどまりました。それは、神のなさる業に、自分自身がしっかりと硬く立つために、主と交わる必要な時でした。
 
Ⅱ.神がしてくださったと確信する信仰
 五ヶ月間引きこもった後、エリサベツは、みんなの前に出て行きます。これは、勇気のいることです。しかし、彼女は証しします。神様が自分に心をかけてくださったこと、かつ人々からの恥を取り除くために、このようなことをしてくださったと、はっきりと告白しています。もはや迷いはありません。周囲がどのように感じ、どのように理解していようと、エリサベツは振り回されません。生ける神が自分にしてくださったと確信しているからです。
Ⅲ.信じきる信仰
 エリサベツは、マリヤが訪問してきたとき、自分の体内で子がおどったのを感じて喜びの声をあげます。人知をはるかに越えた方法で、子供が与えられるという共通した体験を持つもの同士の出会いは、何となぐさめられたことでしょう。そして、エリサベツはマリヤを通して信じきることの大切さを告白します。御使いのことばを信じきることができず、ずっと語ることができないまま日々をすごしている夫ザカリヤの姿を目の当たりにして、つくづくと感じたことでしょう。神の言葉を理解することは難しいものです。しかし、神がなさると信じきる信仰こそ、幸いなのだとエリサベツはいうのです。その信仰こそ、将来に不安があっても、すべて知り尽くすことができなくても、喜びの中に生きていくことができるからです。