聖書:エペソ人への手紙4章7節~16節 

7:しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。
8:そこで、こう言われている、/「彼は高いところに上った時、/とりこを捕えて引き行き、/人々に賜物を分け与えた」。
9:さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。
10:降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。
11:そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
12:それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
13:わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
14:こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、
15:愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。
16:また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。

 今日の聖書箇所は09年度の教会標語(荻窪・西船橋)「共に祈り、愛に成長する」の聖句です。
主イエス・キリストは、神として永遠に存在し、共におられるお方ですが、今は、肉眼の目に見えません。しかし、神は、わたしたちのために、目に見える物として、聖書と、教会を残されました。わたしたちは、重要なキリスト教信仰として「公同の教会を信ず」(使徒信条)として告白しています。教会を軽視する信仰はあり得ません。
Ⅰ.キリストの教会とは
 教会の創立者、支配者、完成者は、主イエス・キリストです(マタイ16:13-20)。人がでしゃばると、主イエス・キリストがないがしろにされ、教会は世俗化、腐敗し、生命を失います。
教会は、主イエス・キリストから「天国のかぎ」を授けられたのです。人々に福音が伝えられ、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)との信仰が与えられ、その信仰告白の上に教会ができました。
教会は、生ける神を礼拝し、神の臨在を経験し、主イエス・キリストの再臨を待ち望む共同体です。今は、主の再臨の近い終末時代です。また、限りある信仰生活を大切にしたいものです。
Ⅱ.教会を建てるとは
 教会の創立者である主は、ご自身の教会を建て上げるために、主の僕(使徒、預言者、伝道者、牧師、教師)を立てられました(12)。それは「聖徒たちをととのえて、奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせる」ためです。そのためには「神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致」が必要です。主の教会を建てあげることほど光栄な働きはありません。
Ⅲ.「共に祈り、愛に成長する」
 教会の一致は、「キリストを基として」の一致です。お互いがキリストのからだとして、結び合っているのは、人間的な仲良し、団結心、義理人情ではなく、互いにキリストの愛によってゆるし合い、天国をめざして励まし、互いの祈りによって支え合っているからです。教会の成長は、組織の拡大ではなく、キリストに似る者としてきよめられることです。教会の完成は、主の再臨の時、主の花嫁として、天に携え上げられ、迎えられることです(黙示録19:7)。