聖  書 イザヤ42:1~9 

1:わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。
2:彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、
3:また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。
4:彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。
5:天を創造してこれをのべ、地とそれに生ずるものをひらき、その上の民に息を与え、その中を歩む者に霊を与えられる/主なる神はこう言われる、
6:「主なるわたしは正義をもってあなたを召した。わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え、
7:盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる。
8:わたしは主である、これがわたしの名である。わたしはわが栄光をほかの者に与えない。また、わが誉を刻んだ像に与えない。
9:見よ、さきに預言した事は起った。わたしは新しい事を告げよう。その事がまだ起らない前に、わたしはまず、あなたがたに知らせよう」。

金 言
 「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ」。 (イザヤ42:1)
 10月~11月は旧約の預言者を紹介します。預言者が活躍する時代は、イスラエルの民の心は、かたくなで、真の神から離れ、偶像礼拝の時代です。
預言者は、神より預けられた言葉をイスラエルの王や民に語ります。しかし、聞く者はいないか、わずかで、預言者さえも迫害を受け、殉教します。現代も、神の言葉への鈍感、無関心、無頓着なキリスト教会の危機の時代です。
 北イスラエル王国がアッスリア帝国(BC722)に、南王国ユダもバビロン帝国(BC587)に滅ぼされます。イザヤ(BC742-687)は、神からの警告の言葉を語ると共に、国の滅亡という絶望と暗黒の先に、神による国の回復と、メシア(キリスト)による信仰復興の希望を預言します。
イスラエル民族も異邦人も、メシア(キリスト)だけが救いです。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:12)。
1.主の僕(しもべ)は、キリスト
 マタイの福音書12章17-21節(新p18)は、イザヤ書42章1-3節を主イエスの宣教活動の成就としていますので、「わがしもべ」とは主イエス・キリストです。「わたし」とは、神ご自身です。主イエスは、神が支持する、神の喜ぶ、神が選んだ、神の霊を受けた、主の僕です。神が僕へ向ける「思いの深さ」がわかります。主が遣わされた僕であるキリストをないがしろにすることは、神の悲しみです。どんな時でも、キリストが中心になっていることが、神の喜ばれることです。
2.主の僕(しもべ)は、道を示す
 「彼はもろもろの国びとに道をしめす」(1)。「彼は衰えず、落胆せず、ついには道を確立する」(4)。「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』」(ヨハネ14:6)。その道とは、主イエスが示された道です。それは、華々しい自己宣伝ではなく、主の僕の柔和と謙遜の生涯と、十字架の死に至る従順による救いの道です。罪人の救いは、父なる神の憐れみと、主イエスの愛と忍耐によるのです。わたしたちは、静かに主イエスの示される道を歩み、主イエスの言葉を聞く必要があります。どんなに弱々しく、倒れそうになっても、自分に失望することはけっしてありません。主ご自身がそのすべてを経験されたからです(ヘブル4:14-16新p347)。
3.主の僕(しもべ)は、光を示す
 「わたしはあなたを…、もろもろの国びとの光として与え、盲人の目を開き、…」(6-7)。イザヤの時代は、神から離れ、暗黒の中にいました。現代と同じように、先が見えないのです。神ご自身と神のご計画が見えないことです。先が見えないと、暗黒の中に座して死を待つだけです。
 主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)と言われました。
 神の光の中にいる者は、神の栄光を見ることができます。偶像の神々や世の力におびえる必要はありません(8)。
 神の約束の言葉は、わたしたちの人生を導きます。偶像の神や自分の知恵や力により頼んだ者は、最後は恥をかき、滅びしかありません(イザヤ42:17)。わたしたちは目先のことに惑わされることなく、神のなさる「新しい事」(9)を期待し信頼して生涯を全うすることができます。