聖 書:ローマ3:9~26
9:すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。
10:次のように書いてある、/「義人はいない、ひとりもいない。
11:悟りのある人はいない、/神を求める人はいない。
12:すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、/ひとりもいない。
13:彼らののどは、開いた墓であり、/彼らは、その舌で人を欺き、/彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
14:彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
15:彼らの足は、血を流すのに速く、
16:彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
17:そして、彼らは平和の道を知らない。
18:彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
19:さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。
20:なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
21:しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
22:それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
23:すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
24:彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
25:神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
26:それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
金 言 「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。(ローマ3:24)
宗教改革者マルチン・ルッターや、ジョン・ウェスレイをはじめとして、多くの聖徒たちは、この手紙によって救われ、そして、世界史が変えられていったのです。ローマ人への手紙の重要教理は「信仰義認」です。神を信じる信仰とは、人の罪を知り、神の義を知り、その義が信仰によって受け取ることができることを信じることです。
1.人の罪とは
「神の怒りは…」(1:18)と、神から啓示されて、神の罪に対する怒りがわかります。この神観を現代人は歓迎しません。しかし、神のご性質は、「義」です。もし、神に義がないならば、罪や悪は放置され、救いはあり得ないのです。神は罪をさばき、罰するお方です。神は「光」であり「聖」です。
神の怒りは、神を神として認めないで、罪を犯し続ける者を、罪に任されます。神が手を離すということです(1:24-31)。このことは、最悪の悲劇です。
宗教者と自認するユダヤ人は、神のさばきを認めず、罪を悔い改めず、かえって、他人をさばくことしかしません(2:1-29)。罪を怒る神に納得せずに、その神に対して、それは「不義」と抗議します(3:5)。神への居直り、脅迫です。
人がどんなに自分の罪を弁解しようと、神のさばきの前に立つならば、人の「口はふさがれ」、神の前に義とされず、罪の自覚が生じ、神の前に罪人であることを知るだけです。
2.神の義が…現された
「しかし、今や」(3:21)。罪と死の暗黒と絶望にいる者に、神は「義」という救いの手を差し伸べたのです。その救いの手は、すべての人に差別なく与えられるものです。人が、罪の手を神に伸ばしたとしても、到底神に届かないのです(3:23)。 「神の義が…現された」とは、神がイエス・キリストをこの世に与えたことです。イエス・キリストによる救いを信じることが、救いです(3:22)。その救いは「神の義」を全うする救いでなければなりません。
「その(キリストの)血」(25)とは、十字架で、罪の罰として血を流され命を捨てられたことです。その血は、罪の恐ろしさを示し、「神の義」を示しています。「贖いの備え物」(25)は「なだめの備え物」(新改訳)のことです。神はその血を見て、罪に対する怒りを止めたのです。キリストが罪の罰をお受けになり、罪の処罰がなされたからです。罪の処罰がなされた以上、義なる神は、罪を蒸し返したり、思い出したりすることはしないのです(ヘブル10:10,17,18新p353)。
神の義は、罪をそのままにすることはできません。だから、神は罪人ではなく、キリストを罪人としてさばくことによって、神の義を全うしたのです(Ⅱコリント5:20-21)。それはこれ以外の方法では、人を救うことができないからです。十字架の救いは、どこまでも罪を放置することができない神の義と、どこまでも罪人を愛するという神の愛が全うされた救いです。
3.信仰によって義と認められる
人は自分の功績によって救われることを求めます。それは自分の誇りになり、気持ちが良くなるからです。しかし、自分で自分を救うことはできません。神に救っていただく救い、「神に認められる」救いでなければなりません。それは、ただ、神が自分にしてくださった救いをそのまま信じ、受け取る救いです。
神は、「神の恵みにより」「価なしに」に、救いの手を差し伸べています。神が一方的に救ってくださる救いです。罪人としてさばかれ、永遠の滅びに行くことしかできませんでした。自分は救われる何の資格もありません。
神がキリストによってしてくださった救いは、「キリスト・イエスによるあがない」です。キリストの十字架の死は、わたしの罪のさばきを、わたしの「身代わり」として死んでくださった死です。罪人のわたしの死は、キリストの十字架にあるのです。
「信仰義認」は人を変え、世界を変えたのです。ソーントン宣教師は、多くのクリスチャンは義認されていない!」と嘆いたと言われています。自分の救いの根拠を「信仰義認」に置かずに、感覚的、御利益的に捉えているからです。「信仰義認」は、クリスチャンにとっての不可欠の最重要の教理です。