聖書 マタイによる福音書7:24~27
24:それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
25:雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
26:また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
27:雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
金言
なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。(Ⅰコリント3:11)
砂の上に家を建てる マタイ7章26節
ことわざに「砂上の楼閣」などと申します。楼閣とは高い建物のことでありまして、そういったものを砂の上に建てるとすぐに倒壊してしまうということから、基盤がしっかりしていないものは簡単に崩れてしまうという意味に使われます。家を建てるのはそれだけで大仕事ですから、基礎工事をなるべく楽をするには地盤は掘りやすい平地に建てるほうが便利です。愚かな人は風を避けて住み心地の良い砂の窪地を見つけて、イスラエルの地方でワディと呼ばれるその季節だけ乾いた川床になるような場所に家を建てるという大きな間違いをします。乾期の間は快適に暮らせるかもしれませんが、暴風が吹き荒れる雨期になると激流が丘からワディを下って家をめがけて突進して丸ごと飲み込んでしまいます。愚かな人は最悪の結果を考慮に入れないで、容易く建築できる場所に家を建ててしまいました。わざわざ砂の上に家を建てる人などいますかと一笑はできません。今回の地震では液状化現象によって地面が陥没や隆起して水が吹き出る問題があちこちに起こりました。
岩を土台とする マタイ7章25節、詩篇18篇2~3節
一方岩の上に家を建てる場所と決めた人は賢いと言われます。それは砂の上に建てる家より何倍も時間を要して作業も大変です。岩を土台にするとき硬い地盤を苦労して掘り下げます。苦労の末に建てた家は、雨期になって洪水が押し寄せてもビクともしません。まさに磐石の備えです。「磐石」とは大きな岩のことですが、意味は岩が硬いことから、安心で心丈夫であることです。砂上の楼閣とは雲泥の開きがあります。岩とは何でしょう。私たちの生活は何によって支えられていますか。財産や家、健康、仕事、家族や友人ですか。誰にとってもそれはどれも大切なものですが、それらは私たちが立っている土台でないことは確かです。なくては困るものですがたとえ失われても回復はできます。人生の土台とは人間を根源的に安定させ何があってもそこに留まる限り安心できるものです。詩篇18:2-3に「主はわが岩、…わが寄り頼む岩…わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。」とあります。表題を読むとダビデがサウル王から逃げきったときの詩です。人生には思いもかけない「敵」が待ち構えています。それは病気、事故、家族の死と別れ、失職、その他様々な悩みなどです。それらに立ち向かうために私たちには寄り頼む岩が必要です。神様こそわが岩です。あてにして決して間違いのないお方です。
土台はイエス・キリスト Ⅰコリント3章11節
聖書は「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(Ⅰヨハネ4:10)とあります。神様は人間を愛しておられますが、罪を犯してご自身と断絶してしまった人間を憐れみます。そこで神の御子イエス・キリストが人としての生れ十字架で人の犯した罪の身代わりに死なれましたが、三日後によみがえり今も生きておられます。人はこの事実を信じるときイエス・キリストという救いの土台に根ざします。「この土台はイエス・キリストである。」(Ⅰコリント3:11)人生の確かな土台があれば私たちはどんな試練の強風や困難の濁流からも救われるのです。