聖 書:使徒行伝1章3~8節

3:イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。
4:そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。
5:すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。
6:さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。
7:彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。
8:ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

金 言
 聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(使徒1:8)
1.父の約束を待つ
 イエス様は十字架の苦難を受けて死なれた後、三日後に復活され、四十日間に渡って弟子たちに姿を現されました。そして熱心に「神の国のこと」を語られました。次にこのように命じられました。「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」(4節)。父の約束とは聖霊様が降臨されることです。それまではこの都エルサレムにとどまっていなさいと命じられました。復活のイエス様にお出会いした弟子たちはすぐにでも出て行って主イエスのことを証したい気持ちでいっぱいだったでしょう。しかし、そのようなときイエス様はあえて動かないでひたすら待つように命じられたのです。宣教のはじまりは、行動するより「待つ」ことが大切な務めでした。私たちが神のみ力である聖霊様を無視したり軽んじたりして、人間の知恵、努力や熱心だけでは長続きがしないばかりか決して良い実を結びません。
2.わたしの証人となる
 イエス様は聖霊降臨を待ち望むと共に「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、…わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)のみことばで神様の驚くような宣教計画を弟子たちに明らかにされました。神様は全知全能であられるのに宣教の方法は私たち「人」を用いることでした。主イエスを信じる証人を通して次の人を救い、福音を(good news)を広めることでした。救われた人が証言するのは主イエスに起こった出来事つまり十字架と復活です。さらにその事実を信じた私が救われて人生が新しくされたことです。「そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」(Ⅰコリント1:21)。神様は弱く愚かで罪深いひとりの人を救い出して、その人自身を用いて新たなる神様のみわざを拡大なさるのです。神様はこのみことばの中で遠大な宣教のビジョンを示しています。イエスを信じた者のあかしはエルサレムからはじまり、教会だんだんと遠くまで広がります(使徒6:7、8:25、9:31、12:24)。ついには当時では地の果てと考えられていたローマにまで到達します。エルサレムは私たちにとって一番身近な場所(家庭、学校、職場)を指しています。身近な人にキリストのあかしをすることは簡単ではありませんが、聖霊様の助けを求めてお祈りしましょう。「言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」(ルカ12:12)。
 宣教はまずあなたの「エルサレム地域」から始まるのです。
3.聖霊の力を受けて
 「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて」とあるように宣教の動力は聖霊様とその方の力です。それゆえ弟子たちは父の約束を待ちながら、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。…天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ11:9~13)というイエス様の約束に従って、聖霊様が下って力が与えられるようにエルサレムの屋上の間に集った120名の人々と一緒に心を合わせてひたすら祈りをしていました(使徒1:14~15)。待ち望んで祈り抜いた十日間の末に聖霊降臨(ペンテコステ)が起きました。教会には皆で一致して祈ることが欠かせません。教会が祈ることでキリスト者はイエス様の証人としてイエス様のみわざを引き継いで行うことが出来る力が聖霊様によって与えられるのです。