聖 書  ガラテヤ4:1~7
4:1わたしの言う意味は、こうである。相続人が子供である間は、全財産の持ち主でありながら、僕となんの差別もなく、
4:2父親の定めた時期までは、管理人や後見人の監督の下に置かれているのである。
4:3それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。
4:4しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。
4:5それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。
4:6このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。
4:7したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。

金  言
このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。(ガラテヤ4:6)

2011年11月にあった本当の話です。ローマで亡くなった94歳の女性は、日本円にして約10億円の資産を愛する飼い猫に残そうとしました。ところがローマでは動物を遺産の受取人にできなかったため、本人の世話をしていた看護人に資産が委ねられることになったそうです。まさに「ネコに小判」です。

1.かつてはこの世の諸霊に惑わされた奴隷の子
ところで現行の法律では動物に直接は遺産を相続させることはできません。また相続者が未成年の場合、相続に関係のない第三者の後見人が特別代理人となります。当然、子どもである間は相続した財産の持ち主でありながら、その人が成人するまでは管理人や後見人の監督下にあります。監督下に置かれた人は自由を感じません。同様にかつてユダヤ人たちは自分たちが神様に監視されていると恐れて、ひたすら律法の掟を守ることだけに追われてびくびく生きていました。その姿は神による相続者(7)でなく奴隷の姿です。それは父親が定めた時期まで(2)続きました。ユダヤ人だけでなく日本人の私たちもこの世の諸霊に支配されています。風習やお祭り、種々の占い、縁起、年齢や性別による偏見、血液型、他にも私たちを迷信的に縛っているこの世の幼稚な教えは数限りありません。かつての私たちはこのような世の諸霊に惑わされた奴隷だったのです。これがキリストを知る以前の私たちです。キリストを知った後も私たちが敬虔の象徴として、規則正しい生活を誇張し、そこに達しない自分や他人をさばき、律法主義とこの世の諸霊に惑わされるなら依然として奴隷の子です。

2.時が満ちて神は御子を遣わされて
 毎年、クリスマスが来ると「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。」(ガラ4:4)を思い出して、キリストがこの世に誕生された日の喜びをかみしめます。神は、幼稚な考え、この世の諸霊にしばられている私たちを解放するために御子をこの世にお遣わし下さいました。まず「神は御子を女から生れさせ」(4)ました。ということは神が私たちと同じ人となられたと言うことです。神は天上から地に住む私たちをながめて監視している恐ろしい方ではありません。罪を除くために人となられたので、人としての弱さ、悲しみ、痛みを私たちと共に担われたお方でした。次に「律法の下に生れさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。」(4-5)。十字架は私たちを律法のもとからあがないだすためでした。あがないとは代価を払って買い戻すことです。イエスがそのために支払われた代価とはご自分のいのち、つまり血潮でした。「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さった」(7)と続きます。キリストの誕生と十字架は一つの目的を果たすためでした。それは私たちが神の子どもとなるためでした。

3.今や私たちは神の子どもとなった
 パウロはふたつの人間関係を対比しています。一つ目は主人と奴隷(使用人)です。主人というものは、雇っている人間を監督しながら評価します。使用人は怠け者なら解雇されるし優秀なら表彰されます。律法を神の代わりとして生きていると、私たちはいつも神の目を気にして失敗しないかおびえながら暮らします。律法を破れば神に罰せられるのではないかと言う恐れがつきまといます。それは主人と奴隷の関係のようです。しかし二つ目の親子関係はそうではありません。親も子どもを指導し見守ります。それは監督者の立場ではなく親としての責任からです。親はこう生きて欲しいと教え教育しますが、主従関係ではありません。それは愛からです。親は子どもの行いがどのようなものでも、それで親は子を愛することをやめることはありません。親子関係は行いによって評価するのでなく、行いを超えた愛によって結ばれているからです。それを一言で表したことばが「アバ、父よ」です。「アバ」はヘブル人の小さな子どもがお父さんに呼びかけるときに使うことばです。神の子どもとなった私たちは小さい子どもがお父さんによびかける気持ちで、全能の神に頼って「お父さん」と呼びかけることができるのです。

【今日の祈り】
神様、あなたを「お父さん」と愛情をこめて親しく呼ぶことができるすばらしい恵みをありがとうございます。そのために御子イエス様を人として遣わし、人の罪をゆるしきよめるために十字架にかかってくださったこと信じます。あなたが送られた御子の霊である御霊によってより深く親しく神と家族の交わりに入らせてください。あなたを父と呼ぶことであなたを信頼して従います。イエス様のお名前によってお祈りします。