聖 書  ヨハネによる福音書10章1節~18節
10:1 よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。
10:2 門からはいる者は、羊の羊飼である。
10:3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。
10:4 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
10:5 ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。
10:6 イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。
10:7 そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。
10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
10:13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
10:17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
10:18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。

金  言 「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:11)

 聖書は人を弱く凡庸に見える羊にたとえ、その羊を危険から守り養い育てる羊飼いを神にたとえます。有名な詩篇23篇では「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。…」とダビデは歌っています。羊飼いだったダビデはその役目を洞察して、羊が羊飼いを頼り慕うようにわたしは神を求めますと歌います。それは人が死の淵をさまようような時でも、神の腕(かいな)に抱かれているからと神をたたえています。

1.良い羊飼いは自分の羊を愛して導く
  神は人を守る羊飼いなので、神の子として世に遣わされたイエスも良い羊飼いでした。みなさん牧場を思い浮かべてください。羊の囲いには一箇所だけ門がありました。良い羊飼いはその門から出入りしますが、盗人は門番が見張る門を避けて別のところから柵を乗り越えて羊を狙おうとします。この場合、羊はイスラエルの民を表し盗人は偽キリストです。良い羊飼いであるイエスは自分の羊をこよなく愛して、門から入ると一匹ずつ名を呼びます。愛するみなさん、救い主からじかに自分の名前を呼ばれることを考えたことがありますか?その瞬間にわたしたちは最高の喜びと名誉なときを味わうでしょう。

羊飼いは自分の羊を門から連れ出すと先頭に立って導きます。羊という生き物は群れに従ってめいめい歩きますが、自分からは先立っては行きません。羊は羊飼いが安全で美味しい牧草がある地に連れて行ってくれると知っているからです。だから羊は自分の牧者の声を知っていて彼の呼びかけについて行きます。羊が自分を愛して大切にしてくれる羊飼いを慕ってついて行くようにわたしはイエスを求めているでしょうか。

2.良い羊飼いは羊のために命を捨てる
 イエスはこのたとえをわからなかった人々に別のたとえで教えます。それは「わたしは羊の門である。」(7)と言われました。イエス・キリストは罪からの救いの門です。誰でもこの門を信じてくぐるなら救われます。ただしこの門はあえて狭くつくられています(マタイ7:13)。 救いを求めてくる者は、どんな人でも謙虚になり神に「ごめんなさい」と頭を下げて罪を悔い改めて入らなくてはならないからです。救われたのち門を出入りしてと書いてあるのは、わたしたちが礼拝のため門を入り、キリストをあかしするためにそこから遣わされて行くからです。そして羊飼いの先導で神のみことばという最高の牧草を食むのです(9)。イエスは羊飼いとして来た目的を「羊に命を得させ、豊かに得させるため」(10)と言われました。まさに羊に「宴を設け」(詩篇23:5)てくださるのです。羊飼いについて行く羊は決して飢えることも渇くこともありません。

最大の恵みは「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」(11,15,18)ことです。普通は飼われている羊が主人のために命を落とすことはあっても、羊飼いが自分の羊のために命を投げ出すことはありません。しかし良い羊飼いであるイエスは羊であるわたしたちを愛して人の罪の身代わりのために十字架で命を捨てて下さいました(ヨハネ15:13)。

3. イエスは自分で命を捨てそれを再び得る
 初めに囲いの中の羊はイスラエルの民だと言いました。ここでイエスは「囲いにいない他の羊」(16)も導こうとしています。つまりこの羊は異邦人を指しています。そしてここでイエスが預言する通りに世界は「一つの群れ、ひとりの羊飼い」となるのです。神は唯一であり、救い主もお一人です。

イエスはイスラエルの宗教指導者から妬まれ群衆を扇動する策略によってポンテオ・ピラトのもとで十字架にかけられて殺されましたが、それらは人の罪の結果であってもはじめから父なる神のご計画に基づいて行われたことでした。イエスは始めからわたしたち羊のために命を捨てる決意をもって天から下られたのです。イエスの命は「取り去られた」のではなく「自分から捨てた」のです。命を捨てたのはそれを死後三日目に再び得るためです。神であるイエスは命の源であり、それを捨てる権威があり、もう一度得る権威がありました。それらはみな父なる神の命令でした。わたしたちはイエスという救いの門を通って、まことの命を豊かに授かり良い羊飼いであるイエスにどこまでもついて行こうではありませんか。彼は必ず命がけでわたしたちを守り育てます。

【今日の 祈り】
道に迷い罪を負った人を愛し導き、神のもとに立ち帰らせるため十字架に命を捨てて、自分の羊である人間を救ったイエスよ、あなたはまことの良い羊飼いでした。わたしたちは羊に命を豊かに得させるために用意した神のことばである牧草をはみ、良い羊飼いが呼ぶ声を信じてどこまでも従っていきます。