聖 書 エペソ人への手紙6章1~4
6:1 子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。
6:2 「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、
6:3 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。
6:4 父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。

金言 「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。」(エペソ6:1)

5月の第二日曜日は「母の日」です。教会ではこの日を父母の日と定めて記念してきました。伝記に残るような偉人でも、親の存在が無くしてその人はこの世界にいません。神様が造られたすばらしい世界に生まれるために欠かせなかった両親の存在を思うときわたしたちは無条件で親に感謝できます。母の日はひとりのクリスチャン女性の願いからアメリカの教会で始まりました。それが日本に採用され「母の日」は定着しました。聖書は両親に対してどう言っていますか。

1.両親に従う
 従うという行為は意味もわからないでただ従う<盲従>とは違います。そもそもの意味は「聞いて…行う」ことが「従う」ことでした。そこから「従順である、服従する、聴従する、応答する」の意味に派生しました。ここで注目したい言葉は「主にあって」(1)です。わたしたちは皆、神様が親として選ばれ、親としての権威を授けた一対の男女の下に子として生まれました。クリスチャンの親はもとより、まだ信仰を持つに至らない親でも、主が選ばれてあなたが生まれる第一原因となった両親を慕い、親の声に真剣に耳を傾けて信仰者らしく誠実に事に当たることが大切です。

福音書はイエスさまの幼小年期について多くは語りません。その中で唯一のみことばは「それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。」(ルカ2:51・新改訳)があります。このときイエスさまは両親とナザレからエルサレムに宮もうでに行かれました。マリヤとヨセフは祭りの影響で混み合う町でイエスさまを見失います。少年イエスは神殿で宗教学者たちに取り囲まれて対等に宗教談義をしておられました。周囲の大人はイエスさまの賢さや答えに驚きます。イエスさまはこの日、「自分の父の家」(ルカ2:49)と言われた神殿で、天のまことの父を偲びながらも、神の子であるお立場を捨て人として定められた両親に従いナザレに戻り、公生涯に入る三十歳まではユダヤ人の息子らしく、父親ヨセフの仕事を手伝われて両親に仕えられたのです。

2.両親を敬う
 「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって(2)とありますが、これは律法の核をなす十戒の人に対する教えの最初に定められた教えです。このあとに「殺してはならない。」とか「盗んではならない」が続くわけです。つまり第一の戒めの両親を敬うことを守ってゆくとき、その人は神様と神様が選んだ両親を悲しませる罪から離れ、これに続く5つの戒めもおのずと守ることができるのではないでしょうか。「あなたの父と母とを敬え」は積極性を持つ肯定文ですが、そのあとに続く戒めはすべて「…してはならない」という否定文で人に警告を与えています。人間は罪があるので、頭ではわかっていてもやめられない心、わがままな心、従えない心があります。しかしわたしたちはイエスさまの十字架で罪が赦されたのですから、神様に従うように「主にあって」言い訳をしないで両親に従うことを聖書は教えています。

3.幸いな一生はそこから始まる
 「あなたの父と母とを敬え」という神様からの戒めを忠実に守る者に、神様は次のような約束を与えてくださいます。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」(3)。神様の約束、それは地上に生きるだれもが願ってやまない幸福と長寿です。「従う」ことと「敬う」ことは表裏一体で緊密な関係にあります。親を敬うからこそ親に従うのです。逆説的に言えば、従うからにはどんな親であっても自分の好みや判断が基準ではなく、自分が生まれる前に神様が決めてくださった親を「主にあって」敬っていくべきです。そうすることで、人の幸いな一生はそこから始まり、いつも平安に満たされ穏やかに暮らすことができ、結果として地上でながく生きながらえることができるのです。

【今日の祈り】
神様、わたしたちそれぞれにすばらしい両親を与えてくださりありがとうございます。聖書は人に対する第一の教えとして「あなたの父と母とを敬え」と言っています。神の子イエスさまが両親に仕えられたように、わたしたちは主にあって両親を敬い従うことで神様の栄光を表し、約束された幸いな一生を長く過ごすことができますようにお祈りします。