聖 書 マタイによる福音書11章28~30節
11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

金言
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11:28)

  17世紀にイギリスのクリスチャンの作家が書いた有名な小説「天路歴程」がある。あらすじは主人公の基督者(クリスチャン)が滅亡の町を出発してシオンの山(天の御国)を目ざして旅を続けるが、途中でいろいろな危険な目にあって悪い連中に惑わされる。それでも伝道者の助けを得てやっとの思いで門にたどりつく。やがて彼は丘の上に立つ十字架を見る。すると背中に背負っていた重荷がするするとすべり落ちるのを感じる。そのとき彼はイエス・キリストが自分の罪の身代わりとなって十字架にかけられたとわかり心から泣く。それからも彼は幾多の苦難を乗り越えて天の都にたどりつく。

 

1.イエスのもとに来て救いを受ける

今日の箇所は聖書でよく知られた聖句である。教会の看板にも一番よく使われている箇所です。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」これを読んで吸い寄せられるように、教会の中に入ってしまいその日から求道をはじめて救われ、牧師になったという方を知っている。

天路歴程の主人公でなくても、人は知らず知らずに重荷を抱え込んでしまうか、重荷を背負ってへとへとになりながらも歩いている。人生の重荷とはなにか。まず思い浮かべるのが思いわずらい、心配、不安、気苦労、プライド、自負心、などでそれらは人を疲弊させるやっかいなものである。重荷の原因は他にもある。後ろめたい心の問題、犯してしまった罪である。罪は心の負担になる。それらは自分で解決して根絶しようとしても不可能である。だからと言って重荷の負担を軽減させるために他の何かで気を紛らわしてみても無駄だ。その場しのぎで根本的な解消はできない。では自分の重荷は他人に肩代わりしてもらうことはできるか。人はだれでもそれぞれ自分の罪の重荷を持て余しているのだ。どうして他人の分まで引き受けられようか?重荷の重さは他人さまにはわかってもらえない。しかしイエスは違う。イエスはわたしのもとにあなたの重荷をまずもっていらっしゃいといわれる。イエスは重荷を肩代わりして、わたしたちを休ませてあげようと約束された。重荷を軽くするとは天路歴程で言われたように、イエスが十字架によってわたしたちの罪を取り去ることだ。わたしたちはイエスに近づき十字架を仰いで救いを受け取る。救われることで罪の重荷は取り去られ、わたしたちの魂は休みが与えられ、安堵することができる。

2.イエスの弟子として学ぶ

救われたときだけ喜んで、そのあと自分勝手に歩き出すなら、あなたはまたすぐに別の重荷を背負っている自分に愕然とする。わたしたちはイエスに学びイエスに似る者に変わっていくことではじめて、「肉の人・古い自分」と完全に決別することができる。イエスに学ぶとは「クリスチャンはこうしなければならない。」という律法的になることではない。また聖書をものさしにして他の人をさばくことでもない。イエスの「あわれみ深さ」を身につけることだ。この聖句では「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから」と言い表している。それはイエスの生涯をたどれば一目瞭然であり、十字架につけられてからのおことばによれば火を見るより明らかだ。イエスは罪がひとかけらもない自分を釘づけにする者の赦しを天の父に声の限りに叫ばれた(Ⅰペテロ2:21~24)。わたしたちがどんな厳しい環境にさらされるときでも世のざわめきではなく、心を静めて聖書を通して神が神の子どもに語りかけられる愛のみこえを集中して聞くとき、イエスにある平安が取り去られることはありません。目標はイエスの弟子となりイエスに生涯学び続けることだ。

3.イエスのくびきを負って仕える

イエスの弟子となることは、師であるイエスが考えるように考え、イエスのあわれみ深さをこの世に示していくことである。多くの人が無関心で自分のことに忙しい世界で、だれかのために労を惜しまないで、ひたすらあわれみ深くあることは愛と忍耐と勇気がいる。自分自身の善行に励むというガンバリではすぐに力尽きてしまう。だからこそイエスと共にくびきを負うのである。イエスのくびきを負って仕えるとき、イエスは奉仕の成果や達成度、完成の度合いなどでその人の評価をくださない。農耕するために同じくびきを負った二頭の牛は歩調や進む道がそろっていないとそれは苦痛だ。しかしそれがまったく一体となったとき、牛は楽をしながら二倍の高率で畑を耕す。イエスと共なる歩みも同じである。ついには自分一人では到底なしえなかった仕事も成し遂げられるのだ。

イエスのくびきは「負いやすく」、罪のない荷物は「軽い」ので、わたしたちは喜んで地上の人生のあらゆる苦楽をこのお方と共に歩めるのだ(30)。