聖 書 マタイによる福音書18章19~20節
18:19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
18:20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

金言
また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。(マタイ18:19)

  今、NHKの連続朝ドラは「花子とアン」です。この主人公村岡花子は山梨県出身で「赤毛のアン」の翻訳者です。ドラマでは山梨県の方言がセリフになりしきりに話題になりました。わたしはドラマの山梨弁に思わず親近感と懐かしさを感じました。そのわけは両親が山梨出身なので母の昔の口調がドラマそっくりだからでした。同郷の山梨県人以上に初めて会った人でも親しみを感じて嬉しくなる人々がいます。偶然知り合った人がクリスチャンだとわかった瞬間です。お互いに口では説明できない一体感を感じます。イエスを信じる人が少ない地で、イエスを愛する人に出会うことはなんと喜ばしいことでしょう。イエスを知る人には目に見えない共通の絆で結ばれています。共有できる「ことばと思い」があります。賛美と祈りで心をひとつにできるのです。

1.どんな願い事もふたりから祈り始める教会

教会の仲間は毎週礼拝に集いお互いに兄弟・姉妹と呼び合う、気が置けない間柄です。だからといってふたりの好みが似ているとか、馬が合うから仲良くなって親密な関係が結ばれているのではありません。では何によるのか。ひとつは互いに祈りの仲間として存在するのです。だからどんなに性格が異なり、考え方が違っていてもわたしたちは「イエスの御名によって」一緒に祈ることができるのです。クリスチャンの共通の絆とは祈ることで生まれるのです。何のために祈るのでしょう。ヤコブの手紙5:13~16には「互いのために祈りなさい。」とあります。わたしたちは病んで苦しむとき、心配や不安のあるとき、困り悩んでいるとき、誰でも神様からの助けがあるように祈ってほしいと願わずにはおられません。信仰が励まされたり慰められたりするのは、他のクリスチャンからのとりなしの祈りの声を耳にして支えられるからではありませんか。

教会は祈る集まりであるということを抜きにしては教会について語ることはできません。礼拝後にふたりのクリスチャンが打ち解けて交わることはどこの教会でも目にする風景です。ひとしきり会話の応酬をした後は、「ではまた来週」とあっさり別れてしまうのは残念です。お互いは何をさておいても神様を礼拝するために教会に来ました。その大切な神様に向かって最後に一言ずつでもいいから互いのこと、教会のために共に祈ってください。今日の聖句のように、教会がどんな願い事もふたりから祈り始める教会に生まれ変わるとき、教会は名実ともにイエスの愛の共同体となるのです。そしてふたりで祈った祈りは確かに応えられるという信仰は深まりさらに祈り続ける人になるのです。

2.心を合わせて天の父に祈り続ける教会

「互いのために祈りなさい。」から祈りが拡大して教会に集まった人々が心を合わせて祈りあう箇所があります。使徒行伝12章です。ヘロデ王は教会の迫害を始めました。手始めに12弟子のひとりヨハネの兄弟のヤコブが捕えられ殺されました。次に教会の中心的な指導者だったペテロが投獄されてしまいます。信者たちを恐れがとりまきました。生まれて間もない教会が頼りにしていた指導者を二人も失ったのです。なすすべを知らない困り果てた人々は集まってひたすら神に祈りました。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」(使徒12:5)。多くの教会は礼拝とは別の日に祈祷会を開きます。教会の歴史の初めの頃からありました。とはいえ今は社会生活が変わり、多くの人が祈祷会には来ることができなくなっていますが、クリスチャンはいつも集まって祈っています。

当時の教会は建物がなく家の教会でした。ペテロは、「マルコ」と呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行きました。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。」(使徒12:12)。ペテロは思いもよらない御使いの不思議な導きで牢屋を脱出しました。教会の大勢の人がペテロの解放を信じて熱心に祈っていたにも関わらず、ペテロが自由になり家の教会を訪ねても、人々は信じようとしないのが現実です。神に不可能はない。神は人の理性や経験値を超えたみわざをなさいます。まさかこんなことは無理だろうとあきらめずに本気で信じて祈りましょう。

3.祈りは教会を変える。

昔から「祈祷会は教会の生命線」と言われています。主を信じる者が心を一つにして祈る祈りは教会からを恐れを取り除き、試練に勝たせます。使徒行伝4章でペテロとヨハネは議会の脅迫にもひるむことなく仲間と祈ります。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」(使徒4:31)とあります。

祈祷会で心を合わせて祈れないのならば、大勢の人が集まる聖日の午後に有志が集まって祈祷会を開くこともできます。イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と言われました。イエスはたとえ2~3人のわずかなクリスチャンの集いでも臨在を約束されました。