聖 書 ルカによる福音書1章46節~55節
1:46するとマリヤは言った、
「わたしの魂は主をあがめ、
1:47わたしの霊は救主なる神をたたえます。
1:48この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。
今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
1:49力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。
そのみ名はきよく、
1:50そのあわれみは、代々限りなく
主をかしこみ恐れる者に及びます。
1:51主はみ腕をもって力をふるい、
心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
1:52権力ある者を王座から引きおろし、
卑しい者を引き上げ、
1:53飢えている者を良いもので飽かせ、
富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
1:54主は、あわれみをお忘れにならず、
その僕イスラエルを助けてくださいました、
1:55わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを
とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。
金 言 『するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。」(ルカ1:46~47)
聖書は時間の流れの中で、ある瞬間に起こったことがその人にとって重大な意義を持つ瞬間があると伝えます。その前と後では全く異なったものに変えられる聖なる瞬間です。燃える柴の前に立ったモーセはそれを機に出エジプトを統率する偉大な指導者になります。迫害者サウロはダマスコ途上で復活の主に出会い回心をして大伝道者パウロになりました。そしてイエスの母となる未婚の女性マリヤも御使いの知らせを受けた瞬間から神に用いられる器になってゆきます。
1.神に選ばれた人マリヤ
マリヤは御使いの知らせを聞いたとき、「ひどく胸騒ぎがして」戸惑いを隠せません。婚約者はいましたがまだ結婚はしていません。それなのに御使いから男の子が生まれると宣言されたのです。その子は「大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられる」と聞けば、若くて信仰深いマリヤは、子どもが旧約の預言者たちが預言してイスラエル人が待ち焦がれた救い主であるとわかりました。とはいえいきなり告げられた知らせを婚約者ヨセフや家族にどうやって話したらわかってもらえるのかと事実を受け止めきれません。彼女はただ「どうして、そんな事があり得ましょうか。…」と一度は絶句してします。しかしマリヤの素晴らしいところは即座に信仰による重大な決断をするところです。彼女は神様のなさることだったら、そのすべてを知り尽くすことはできなくとも、絶対的な信頼を持ってお委ねしよう。そういう思いが全て「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(38)という一言に凝縮されています。
なぜマリヤが神の御子を宿すと言う大きな業の担い手として選ばれたのでしょう。彼女はナザレというイスラエルの寒村に生まれた一処女です。秀でた才能に恵まれたとか容姿が際立っていたとは聖書は記していません。当然のことながら当時の社会では取り立てて誰からも注目されないし期待もされなかったでしょう。だからこそマリヤは自分の身に起きた奇跡的な出来事を賛美し、その喜びを告白して神を讃えずにはおれなかったのです。「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。…」(46~48)。
2.神に用いられた人マリヤ
マリヤは自らを「卑しい女」と名乗っています。彼女が目を見張るような高貴さも、輝きも、華やかさもない存在だったのでしょう。身分の低い卑しいとされた者が他の人々から受ける扱いなのです。ところがそのような者が、御告げを受けた瞬間から神によって用いられようとしています。まさしく聖なる瞬間です。貧しく低いマリヤが神のみこころにかなったのです。それは神がご自身の計画を進められる時のなさり方なのです。つまり神は彼女の持っている何かで彼女を選んだのではなく、彼女に何もないこと、あえていえばその貧しさや卑しさが、マリヤを選ばれた者にしたのです。神のまなざしはいつでも、高いところに向かわず、低いところに向かって投げかけられます。マリヤの貧しさ、低さ、何も持たないことが、かえって神の目に留まったのです。それはマリヤの賛歌の51~53節に歌われた通りです。
マリヤは救い主を聖霊によって宿すという、自分の対する主の計り知れない大きな計画を「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。」(49)と自分を神の前に身を投げ出して明け渡しています。
3.あなたも神に用いられる
そしてこの貧しいマリヤに神の目が向けられ、神がみこころにかけてくださるということは、貧しく罪に汚れた世界に住むわたしたちにも神は顧みてくださり、わたしたちを選び、救い、用いてくださるということです。実力と能力と経験だけで人が評価される過酷な社会の視点に比べて神のまなざしは暖かく愛に満ちています。この神のまなざしがわたしたちを生かし、生きる希望と勇気を与えてくださるのです。イエス・キリストの誕生から二千年経つ今日でも、神はわたしたちの弱さや貧しさに目をとめてくださるお方です。わたしたちそれぞれが持つ世では役に立たないとみなされる弱さや無力さに神はあわれみを注ぎ、神の召しを確信させて神の器として一人ひとりを用いようとされます。
わたしたちにはそれぞれに弱さがあり、貧しく、みじめで、醜いところがあります。誰にも語ることが出来ずに癒されないままの傷が心にあるという方もおられます。神はそんな人々をさげすまれません。その卑しさゆえに神はそこに目を留め、神の愛と赦しとあわれみを注がれます。マリヤに起きたことを自分自身のこととして受け止めましょう。神は弱く欠けだらけの人間をも心にとめ、神の奉仕をさせそれぞれの器を折にかなって用いてくださるのです。それをパウロはⅡコリント12:9~10で証ししています。