エペソ人への手紙2章20~22節

(20)またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。
(21)このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、
(22)そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。

今日は新年度に入って2回目の聖日です。教会は移転によって新しく「船橋栄光教会」として生まれ変わりました。私たちは今日からこの地でまことの神様を礼拝して伝道を始める記念すべき聖日礼拝を守っています。私たちは通いなれた西船橋の地を後にして、教会は同じ船橋市の東側に移りました。教会が新しい転機を迎えたこの年だからこそ、私たちはキリストに合って一層結束を固めて、互いに愛し合い仕え合い、キリストにあるビジョンを共有し合い、互いに励まし合ってキリストにある霊的な成長を遂げたいものです。そのような次第で今日は教会の成り立ちを建造物になぞらえて、パウロが語った箇所を共に学びましょう。

1.イエス・キリストは隅のかしら石である。
先ほど賛美した新聖歌143「いとも尊き」は聖歌では「キリストイェスをもといとして(Church’s one Foundation)」という題で親しまれた曲です。聖歌の歌詞は中田羽後先生です。一番の歌詞がとても素晴らしいのでご紹介します。「キリストイェスをもといとして うち建てられた御(み)教会は きみが血をもて買い給いし 花嫁たちの集まりなり」私はこの曲にある思い出があります。それは私が荻窪栄光教会の前の教会では、礼拝の最後に流れる曲は必ずこの曲でした。演奏だけでしたが毎週聞いたので耳が憶えていました。同じ曲を荻窪栄光教会の礼拝で賛美して歌詞を味わい、どうして礼拝の最後に流されるのか歌詞を知って理解できて、この賛美が一層好きになりました。
[親石] 20節に「隅のかしら石」とあります。かしら石を辞書で引くと親石とあり、石造りの建物の基礎のうち隅に据える大切な石とありました。イエス・キリストは神であり、神は私たち人間にとって親の存在です。人間は神によって創造されました。神様は私たちのルーツで起源となられたお方です。
[礎石] 新改訳第三版は隅のかしら石を「礎石」と訳しています。教会を神殿にたとえると四隅に基礎になる礎石がイエス・キリスト、その上に土台が重なります。新約の土台となるのは使徒と預言者、さらにその上に個々のキリスト者が建物の石となります。

2.われらは主にあって聖なる宮に成長する
[互いに組み合わされる]21節 キリストは礎石であると同時に、教会の拠って立つところです。「このキリストにあって、建物全体が組み合わされ」(21)とある箇所に注目します。私たちはキリスト教信仰という同じ土台に立つ者の集まりですが、一度教会が何かを決めようとすると必ず色んなご意見が出てきます。賛否両論むしろ良いことですが、ものわかれでは方針が定まりません。教会を建物に見立てた場合、緩い石の積み上げでは試練や問題などの強風や地震が来たら倒れてしまいます。しかし建物全体がガッチリと組み合わされていればびくともしません。お互いを理解して寛容な心で相手の話に耳を傾けることは、「キリストにあって」なし得ることです。キリストは凹凸がある私たちの間を和ませ関係を緩和し、互いにぴったりと組み合わせてくださるのです。
[聖なる宮に成長する]21節 建物がしっかりした上で神は教会と言う建物が聖なる宮に成長することを願っておられます。私たちキリスト者は十字架の贖いによって罪赦されて、キリストのきよい御霊が内にあり神のみ住まいとなりました。こうして各自がきよめられるだけでなく、教会全体がきよい宮として成長をしたい。運営委員会では今年度教会全体で第三週に信仰を成長させる学びを始めることを承認しました。今年お互いは聖なる宮に成長しましょう。「あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ」(Ⅰペテ2:5)

3.われらは主にあって神のすまいになる
[共に建てられる]22節パウロはここでも「主にあって」と強調しています。私たちは血が繋がらなくても「神の家族」です。兄弟姉妹と呼び合い膝を合わせて心を尽くして祈り合います。キリストの血潮できよめられたお互いは、キリストの福音を伝えるという喜びに満ちた偉大な使命のために一致協力します。
[霊なる神の住まいになる] 私たちに対するキリストにある信仰のゴールは霊なる神の住まいになるという信じがたい未来像です。かつては罪びとのかしらであったお互いは救いによって生き方が180°転換して「神の住まいになる」のです。自分の能力や努力では到底なし得ないことを、神はキリストによって成し遂げてくださいます。主を信じてお従いしてまいりましょう。