聖 書 コリント人への第二の手紙 5章18~19、21節
(18)しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。
(19)すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。
(21)神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
先週の5日金曜日からブラジルのリオデジャネイロでオリンピックに続いてパラリンピックが開催されます。「平和の祭典」ともいわれるオリンピックは国際情勢が緊張や対立、悪化していても、世界中のアスリートが一箇所に集いスポーツを通じて親睦を持ち和解をして友情を回復させる働きを担っています。
1.神からの和解を受け入れなさい
ですが本当に人間が和解するべき相手は人間同士より前に神様となのです。パウロは「また、わたしたちもみな、…肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、…生れながらの怒りの子であった。」(エペ2:3)人は生まれ持った罪の性格のゆえにはじめから神に敵対して生まれてきたのです。
はじめに神はわたしたちを「自分のかたちに人を創造され」(創1:27)「それは、はなはだよかった」(同1:31)にもかかわらず、はじめの人アダムとエバは神がたったひとつ禁じられたエデンの園の木の実を欲に負けて食べてしまいます。神の目から見ればわたしたちの祖先は「生れながらの怒りの子」であり、人が好むと好まざると否定しようが目を背けようがその血統とDNAの中にもとから罪の因子が入り込んでいます。生まれた後にどんなに良い行いに励もうと正しく生きていますと主張しても、聖人君子に見えようと神様の前では人の罪は明らかです。パウロは人を苦しめる罪の縛りをロマ7:19-20で嘆いています。
結局人は罪性の負のらせん階段を下りていくことを、自分では止めることができません。しかし神はそんな人間を自業自得、自己責任とあきらめることなさいませんでした。なぜなら神は愛だからです。神に造られたのに造り主に背を向けて、勝手に自分の欲望のままに歩む人間に対して、神自ら神の方から歩み寄り和解を提示したのです。人間同士の不仲や絶交はたとえある人と関係が改善しても別の人と闘争が始まる終わりなき戦いです。それに終止符を打つのはまずあなたが神と和解し、神に愛されて赦された経験がどんなときもあなたを平安にします。
2.和解の仲立ちとなられたキリスト
神は完全に汚れのないきよいお方です。罪があるままで受け入れることは神のご性質としてどうしてもお出来になれないのです。しかし人を罪があるまま滅びに行かせることも断固として阻止なさいました。そこで神が全人類を罪から救うために選ばれたたった一つの方法が「神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。」(ガラ4:4)だったのです。この御子イエス・キリストが人として生まれわたしたちに代わって罪の罰として十字架にかかり死なれたのです。そして神は罪の赦しの宣言として御子をよみがえらせました。
神の和解とは、「しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、」「(Ⅱコリント5:18)とあるように、人が罪を犯すことで不和の原因を作ったにも関わらず、和解の方法と機会は神が計画し神がキリストの犠牲というお膳立てをしてくださったのです。和解されられたのは「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、」とあり和解の対象は世です。(同5:19)それに続く「その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、」を新改訳では「違反行為の責めを人々に負わせないで、」人々に罪の責め苦を負わせずキリストが肩代わりされたとあります。
3.キリストにあって神の義を得た人の務め
神様は人(世)和解するために「わたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた」(同5:21)のです。イエス様の十字架上で叫ぶ声がその事実を裏付けています。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。(ルカ23:34)「罪を知らないかた」というのは知識がないということでなく、罪を犯した経験がないという意味です。「それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」私たちの義は行いによってではなく神の一方的な愛が十字架によって和解し実現したのです。新聖歌230「十字架のもとぞ」は十字架が「神の義と愛が会えるところ」と歌います。神と和解した者は「和解の務」(同5:18)をもって福音を伝えましょう。