聖 書:ヨハネの第一の手紙 第1章1~10節
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――
1:2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――
1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
1:4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。
1:5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
1:6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
1:7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
 10年ほど前、あるクリスマス集会でメッセージをされた牧師が準備のために、今の若者たちがクリスマスについてどのような思いをもっているかを質問したことがあった。すると一人の学生が「一年の中で一番、一人でいたくない日です」と答えた。若者に限らず、人は誰かとつながり、共にいることを願う。聖書は、人が神と「交わり」を持ちながら、共に生きていくことを語っている。


1.交わりと喜び
交わりは「交流」「ふれあい」「心と心の触れ合い」とも言える。それは私たちに喜びをもたらす。聖書にある「交わり」という言葉は「命を一緒に持つこと」「一番大事なものを持つこと」ということを意味する。もともと人間は、神と交わりが持てるように造られた。そして神は人間にこの世界を正しく治め、神が与える土地を耕すように命じ、その上で必要な食べ物を与えられた。人間は神の心が分かり、神と大切なものを共有し、幸せに生きる存在として造られた。

2.交わりの中を生きる
1)神は光
神は「光」であると聖書は語る(5節)。このことは、神が真理であり、きよい方であり、正しい方であることを意味する。イエス・キリストは、この手紙の著者であるヨハネが書いた福音書の中で「私は世の光です」と言われた。この光の中を歩むとは、神に従い、神が求めておられる道を歩むということである。
2)避けて通れない「罪」
その一方でヨハネは、罪の問題を取り上げる。「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。」(8)ここに人間の現実の姿がある。神について真剣に考え向き合おうとすると、罪の問題を避けて通ることはできない。生まれながらの状態では人間は神を知ることができず、自分自身の基準で善悪を判断して歩む。創世記3章で、アダムとエバが神との約束を破り善悪を知る木の実を食べてしまったストーリーは、罪の起源、人間の姿をよくあらわしている。神の言葉を聞いてみ心に沿って生きることを拒み、自分の判断で生きることに幸せがあるように思う。しかしその結果、様々な歪み、痛みや魂の深い渇きが生じるのである。
3)どうすれば良いか
罪の解決への道が9節に記される。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」告白するという言葉には「同意する」という意味がある。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、よみがえってくださった。この故に、自分が罪人であることに心から同意する者を神はゆるしてくださり、きよめてくださる。

この神との交わりの中に入り、神と共に人生を送ることを、ぜひお勧めしたい。それは、世界を造られ人を造られ、私たち一人一人を愛してやまない神の素晴らしさを少しずつ知っていく生涯である。赦されること、きよくされることを体験していく歩みであり、神を賛美しつつ「私の人生は神様の御手の中にあります」「神様、感謝します」という喜びを深められていく生涯である。ぜひ、この交わりへの招きを受け取っていきたい。