マタイ8章5~13節
(5)さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、
(6)「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。
(7)イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。
(8)そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。
(9)わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
(10)イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。
(11)なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、
(12)この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。
(13)それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
去る25日起きた脱線事故は死者106名、負傷者461名を出すという悲惨な事故となった。世界で最も安全だと言われていただけに、この痛ましいニュースは瞬く間に世界を駆けめぐった。これは地震や津波と違って明らかな人災である。天災と言い、人災と言い、これほど文明文化の発達した現代にあって、否、そうであるが故に、我らは日々大きな危険にさらされていると言える。我らはどこに身の安全と心の安らぎを求めたらよいのであろうか。
今日のテキストはローマ軍隊の百卒長の信仰を取り扱っている。彼の信仰を通して、み言葉に生きる生活がどのようなものか、について考えてみたい。
Ⅰ み言葉の必要
人間が生存するために必要なものは呼吸と食事であろう。それは人間を動物として考えた場合であって、神に創造された霊的な存在であると考えた場合はそうではない。聖書は「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4)と教えている。
つまり霊的呼吸である祈りと霊的糧であるみ言葉が必要になってくるのである。現代はかつてないほど食の安全が叫ばれる時代である。我らの身辺には危険な食品が多く出回っている。身の安全は自身が守らなくてはならない。果たして我らの霊的食物についてはどうであろうか。
百卒長は自分の信頼する部下が中風で死にかかるという事態に直面し、その必要をイエスに求めたのである。神は我らに対しても同様に、種々の試練を通して、霊の糧の必要性を知るに至ることを願っておられるのである。
Ⅱ み言葉の権威
百卒長は直接(ルカでは長老を介して)その必要をイエスに訴えた。イエスはその願いに答えられようとしたが、百卒長は「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」とイエスの来訪を辞退した。彼は百卒長の言葉の権威を知っていたので、イエスの言葉の権威を認めることが出来
たのである。
イエスの言葉は単なる人の語る言葉ではない。聖書においてイエスは「言」として表現され、創造の始めから存在したお方、神と共におられたお方、そして神として描かれている。そこに神の言葉としての権威が備わっていたのである。
「み言葉はわが足のともしび、わが道の光」(詩篇119:105)である故に、我らは人生のすべての恵み、力、慰め、励まし、癒し、祝福、導きなどをみ言葉に求め、そしてみ言葉の権威の下に自らを跪かせなくてはならない。
Ⅲ み言葉の祝福
かつて復活されたイエスは、疑い惑うトマスに対して「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ20:29)と言われた。百卒長に対しては「イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」と賞賛の言葉をかけられた。そして僕を癒されたのである。ここにみ言葉を信じる者に与えられる祝福がある。祈りにおいても同様である。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)。現象面だけを捕らえるのではなく、まず本質をしっかり捕らえていく時に、初めて我らは落ち着いた信仰生活を営むことが出来るのである。
日々み言葉に聞き、読み、学び、暗唱し、黙想する者となり、そして日々み言葉の約束を握り、み言葉を信頼し、み言葉に生きる者とならせて頂こう。