聖 書
マタイ5章9節

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

マタイ5章21節~26節

(21) 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。(22) しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。(23) だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、(24) その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。(25) あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。(26) よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。

 この世の人々が考えている平和はあくまでも自己中心的な平和である。自分の為の平和である。そのことで人々は皆、 平和を求めるが、それに伴う犠牲は払わない。平和のところで暮らしたい願いは持っているが、平和をつくり出す為の苦 労は拒む。
人々がつくろうとする平和の限界がここにある。9節の「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼ら は神の子と呼ばれるであろう」の意味は深い。具体的な例をマタイ5章21~26節、43~46節からみたいと思う。21~26節は 二人の間で平和を壊してしまった加害者に対する教えである。43~46節は二人の間で被害を受けた被害者に対する教えで ある。主は私たちクリスチャンをこの地において平和をつくり出す人としてお召しになったのである。私たちは家庭の中 で、社会の中で、国の中で、世界の中で福音による、神の平和をつくり出したいのである。
1.みことばによる平和つくり
 平和と言うものは理論ではなくてイエス・キリストのように自ら実行することである。みことばに従っていく時、私た ちを通して平和が来るのである。もしかして加害者になってしまったときに主は「早く仲直りしなさい」と教えている。 具体的にはプライドを捨てて、被害者に謝ることである。被害者になった時に主は「敵を愛し、迫害する者のために祈れ 」と教えている。聖書の教えではなくて人の思想による平和つくりはいつも失敗に終わる。政治家は世界の平和を訴えて いるが、しかし、その裏には経済的な、政治的な計算が含まれている事が多い。純粋に訴える人もいることはいるが、実 行できる能力がなくて虚しい叫びで終わってしまう。
2.最優先になるべき平和つくり
 5章24節に「その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささ げることにしなさい」と書いてある。二人が和解することは神様に捧げる礼拝に比べられるくらい大事な事である。平和 を壊すのは簡単である。兄弟に怒り、愚か者、と一言いえば二人の間の平和はなくなる。しかし、それに伴う災いと罰は 大きなものである。
平和が崩れると全てが行き詰まってしまう。
 私たちはこれから幸せに生きるために平和をつくらなければならないし、守らなければならない。現在の世代は平和の 価値が何か分かっていないようである。現在の平和がなくなると全てがなくなる。未来のビジョンも、夢も、幸せも、勉 強も、出来なくなる。現在、日本の平和は、ただでもらったものではない。大きな犠牲を払ったのである。私たちクリス チャンは聖書の教えに従い、また執り成しと悔い改めの祈りによってこの国の平和を守らなければならない。
3.信者のシンボルとしての平和つくり
 9節「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」神の子は平和をつくり出せる 力を持っている。イエス様が十字架によって神と人類の平和をおつくりになった。弟子たちが福音を持って異邦人とユダ ヤ人の平和をつくったのである。今度は私たちの番である。福音を持って日本と韓国、アジア全体の和解をつくらなけれ ばならない。神様はその課題を私たちにお与えになった。近いところから始めたいと思う。
 
 私たちも平和の道具として用いられるようにアッシジの聖フランチェスコの「平和の祈り」を捧げたいのである。