聖 書:ヘブル11章13節~16節

(13) これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。(14) そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。(15) もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。(16) しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。 

 本日は「聖徒の日」である。昨年までは召天者合同記念会を復活祭の翌週の聖日に当てていた。双方に意義があるが、今年は
この日を当て、東京霊園(八王子)と並行して行うこ とになった。
 この意義ある日に、ご遺族の方々の上に主の豊かな慰めを祈ると共に、我らもまたこの世を去る者であることを覚えながら、
「天を想う生涯」について考えてみたいと願ってい る。天とは地に対する天、俗に対する聖、可見に対する不可見、外面に対す
る内面、有限に対する無限、現世に対する永遠などを表す言葉である。
Ⅰ.人の本性に適った生涯である。
 「天を想う生涯」とはどのようなものか。第一は「人の本性に適った生涯」である。聖書には「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道3:11)、また人間は「霊と 心とからだ」(Ⅰテサロニケ5:23)から出来ていると記されている。犬や猫には「からだと心」はあるが、「霊」は存在しない。聖書は「神のかたちに創造し、男と女とに創造された」( 創1:27)、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」(創2:7)とある。つまり人間には神の霊、神の命が与えられたのである。ここに人間と動物の違い があり、人間の尊厳が存在するのである。
Ⅱ.神の御心に適った生涯である。
 人は折角神に似せて造られ、神の命に与りながら、残念ながらアダムとエバの堕罪によって堕落してしまった。つまり天を想う心が失われてしまったのである。しかし愛の神は 、もう一度人に神の命を与えるために、イエス・キリストをこの世に送り、人が負うべき神の裁きを人に代わって受けるために、十字架におかけになったのである。愛の神は「ひと りも滅びることがなく、すべての者が悔改めになることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」(Ⅱペテロ3:9)。これが神の御心である。だからこそ主イエ スを救い主と信じて天を想う生涯を送ることは、まことに神の御心に適った生涯なのである。
Ⅲ.価値ある生涯である。
この地上生活には様々な苦労や戦いがある。そして多くの人々は地上生活に真の生き甲斐を見出すことなく、涙と悲しみに暮れる人生を送っている。しかし幸いなことに、神を 信じ、神の命に与った者には、永遠を思う心が再び与えられる。彼らにとっては天は「ふるさと」であった。だからこの地上にどのような苦労や戦いがあったとしても、希望とよ ろこびに満ちた価値ある人生を送ることが出来るのである。
召天された方々は勝利者である。我らもまた先人に倣い、「天を想う生涯」を送る者とならせて頂きたいと願う。