聖 書:ホセア10章11,12節

エフライムはならされた若い雌牛であって、穀物を踏むことを好む。わたしはその麗しい首を惜しんだ。しかし、わたしはエフライムにくびきをかける。ユダは耕し、ヤコブは自分のために、まぐわをひかねばならない。あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる。

昨年はアラブ陣営による自爆テロが相次ぎ、スマトラ沖地震による津波を始めとして国内外において様々な天災が相次いだ。またJR西日本の電車脱線事故は想像を絶するような痛ましい事件であった。更にまた最近の耐震強度偽装事件は未だその真相は解明されていないが、性善説を根底から見直さなくてはならない程の悲しいものであった。
 ホセアはBC755年から725年にわたってイスラエルにおいて活動した預言者である。彼の中心的なメッセージは「悔い改めと赦し」であった。彼は「淫行の妻と、淫行によって生れた子らを受けいれよ」(1:2)という辛い言葉を神から受ける。こうした悲しい経験を通して、罪深い人間を神は受け入れて下さるというメッセージを語る者とされた。
 新年に当たってホセアを通して語られた神のメッセ-ジに与ることにする。
Ⅰ.主のみ心を知る。
 主のみ心は、今も昔も全ての人が悔い改め、主を信じ、救われることである。エフライムはかつてはエリート集団であったが、今や罪のためにユダやヤコブと同様にくびきをかけられ、耕し、まぐわを引かねばならない身分となっている。神はこうしたイスラエルに対して「今は主を求める時である」と語られる。聖書は「あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか」(マタイ16:3)、「あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである」(ローマ13:11)と教えている。人間の戦略や戦術も必要ではあるが、最も必要なことは、主のみ心を知って「主を求め、主に祈り、主に願い、主を信じる」ことである。
Ⅱ.主の命令に従う。
 主の命令は、「あなたがたの新田を耕せ」である。新田とは、新しい開拓地、よく耕した土地を意味している。石地に種をまいても意味はない。一般の教会に対する印象は「教会は何をしている所か分からない」と言うものである。また「教会の敷居は高い」とも言われる。教会をもっと人々に知って貰うように努力しなくてはならない。敷居が高ければ取り除くか、ないしは踏み台を用意する配慮が必要なのではないだろうか。果たして我らはそうした配慮をしているだろうか。主は「あなたがたの新田を耕せ」と命じておられる。素直に知恵を尽くして従う者でありたい。
Ⅲ.主の約束を握る。
 主の約束は、「主は来て救を雨のように、あなたがたに降りそそがれる」である。
これはリバイバルの預言である。イザヤもまた「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」(43:19)と預言した。主は命令を与えられる。命令の背後にはいつも約束が伴っている。命令に従わなければ約束は空証文になり、従うときに約束をしっかりと握ることができる。
「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント6:2)、「今は主のはたらかれる時です。」(詩篇119:126)。
今年こそ、家族や親しい友人たちの救いと祝福のために、神に対して大きな期待を持たせて頂きましょう。