説教題:「神のみわざが現れるため④   『見える』と言い張る罪」
聖 書:ヨハネ9章35節~41節

(35) イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。(36) 彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。(37) イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。(38) すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。(39) そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。(40) そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。(41) イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。

 「知ったか振り」という懐かしい言葉がある。死語とまでは言わないものの、日常生活では殆ど使われない言葉ではなかろうか。これは、知らないことを人に聞けないばかりに、あたかも知っているような振りをすることである。お互いの人生において多少なりとも一度や二度は「知ったか振り」をして恥ずかしい思いをしたことはあるだろう。
本日の聖書箇所には「見えない」ことを素直に認める人と、「見える」と言い張る人の姿が対照的に描かれている。
Ⅰ.「見えない」ことを素直に認める人
 盲人はパリサイ人たちの反感を買って外へ追い出されてしまった。しかし主イエスは「彼を見つけ」(新改訳)だされた。そして「あなたは人の子を信じるか」と尋ねられた。彼は「知ったか振り」をしないで、「それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」と正直に話した。すると「今あなたと話しているのが、その人である」とご自身を現された。彼は即座に「主よ、信じます」と告白して、「イエスを拝した」のである。
 こうして彼は肉眼だけでなく、その霊眼も開かれて行った。彼は初め「イエスというかた」(11)と呼び、次に「預言者」(17)と呼び、そして「人の子(他の写本では神の子)」と告白するに至った。「信頼と服従によって発芽する信仰は、まことの礼拝によって開花する」、反対に「キリスト者の礼拝が沈滞する最大の理由は、いつも例外なく、イエスの救いのわざを承認し、それを自分のものとして経験し、感謝することが足りないことである」(村瀬敏夫)とは至言である。
Ⅱ.「見える」と執拗に言い張る人
 イエスは「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」と言われた。イエスの本意は「わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである」(3:17,12:47)。しかしイエスの言葉に聞き従わない者、反逆する者にとっては、結果的にさばきの言葉となるのである。
 この言葉を聞いたパリサイ人たちは即座に「わたしたちも盲人なのでしょうか」と反問した。その本心は、自己吟味の結果としての謙遜な発言ではなく、自らを正当化することを念頭においた腹立たしいまでの発言であった。これを聞いてイエスは「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と言われた。
 聖書は「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」(Ⅰコリント8:2)と教えている。まさにパリサイ人こそ「知ったか振り」をする人たちであった。
 「見えない人」とは「霊的視力を失っているが、その必要性を自覚している者」であり、「見えると言い張る人」とは、「霊的洞察力があると自認している者」を指している。「さばく」とは二分することである。どこまでも主を信頼し、お従いしていく者とならせていただきたい。