聖 書:ヨハネ10章1節~15節

(1) よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。(2) 門からはいる者は、羊の羊飼である。(3) 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。(4) 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。(5) ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。(6) イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。(7) そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。(8) わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。(9) わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。(10) 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。(11) わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。(12) 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。(13) 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。(14) わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。(15) それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。

 私の神学生時代(1957~1961)はまだまだ物資の乏しい時代であった。当時の神学校では米こそ作らなかったものの、小麦、じゃが芋、さつま芋をはじめ大根、玉葱、ほうれん草などを栽培し、更には鶏や山羊を飼育して卵や羊乳などを食していた。特筆すべきはハブ茶を栽培して飲用に供したことであった。小さな黄金虫のような輝きとつやつやした肌触りは今も忘れることが出来ない。思えば案外豊かな食生活をしていたものだと思う。私は山羊の飼育係になったことがあった。餌の世話から山羊小屋の清掃、乳搾りから種付けまで担当した。山羊はきれい好きな動物であったが、小屋の至る所で糞をするのには閉口した。懐かしい思い出である。
 この章には羊飼と羊との麗しい関係が記されている。それは牧者であるキリストと私たちとの関係を表している。
Ⅰ.良い羊飼は羊を知っている。(1~6,14)
 羊は愚かで弱く迷いやすい動物である。群れを作るのが苦手で、獰猛な動物にとっては格好の餌食となる。だから羊にはどうしても良い羊飼が必要となる。キリストは罪人である人間を「迷える羊」として捕らえ、ご自分を良い羊飼として位置づけておられる。良い羊飼は「自分の羊の名をよんで連れ出す」(3)、そして「彼は羊の先頭に立って行く」(4)。羊は「彼の声を聞く」(3)、そして「彼について行く」(4)。羊飼は羊の所有者であり、羊のすべてを知っている。キリストは「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り」(14)と言われる。
Ⅱ.良い羊飼は羊に命を得させる。(7~10)
 羊は牧畜民族であるヘブル人にとっては財産であった。羊はその生活のすべてにおいて羊飼に依存していた。そして羊飼は責任をもって羊の世話をした。羊と牧者の麗しい関係をダビデは詩篇23篇において次のように歌っている。
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。・・・わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」と。
 キリストは「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるため」(10)、「わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつく」(9)と言われた。羊は羊毛、羊乳、羊肉、羊皮、角笛などに利用された。
Ⅲ.良い羊飼は自分の命を捨てる。(11~13,15)
 キリストは「わたしは羊の門である」(7)、「ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である」(1)と言われた。羊を守ることは命がけの仕事であった。
今日のキリスト者にもいろいろな外敵が存在する。その最大の敵は悪魔である。イエスは悪魔の手から私たちを救うために十字架において命を捨てられた。イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)として祭壇に捧げられた。「その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」(Ⅰペテロ2:24)と記されている。
 羊飼であるキリストは「大牧者」(Ⅰペテロ5:4)と呼ばれ、ヨハネ黙示録には新天新地における勝利者として小羊なるキリストが描かれている。(21:22,22:1)。
 良い羊飼であるキリストは、私たちを知り、豊かな命を与え、命をかけて私たちを生涯守って下さる。偽の牧者に惑わされることなく、大牧者である主のみ声に従い、豊かな命に満ちあふれた者とさせて頂きましょう。