聖 書:ヨハネ14章18節~24節  

(18) わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰っ
て来る。(19) もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。し
かし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるか
らである。(20) その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたし
におり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。(21) わた
しのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたし
を愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人
にわたし自身をあらわすであろう」。(22) イスカリオテでない方のユダがイエ
スに言った、「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあ
らわそうとされないのはなぜですか」。(23) イエスは彼に答えて言われた、
「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、
わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その
人と一緒に住むであろう。(24) わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らな
い。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわさ
れた父の言葉である。

 わが国最初の孤児院は1887年(明治20年)石井十次が創設した岡山孤児院であると言われています。彼は当初医者を志望して岡山県甲種医学校を卒業しました。実習を兼ねて診療所で代診をしていた時に巡礼の子を預かることになったのがきっけで、孤児救済事業の道に進むようになりました。ジョージ・ミュラーの影響も大きかったようです。事業は故郷の宮崎、東京、大阪にも広がりました。しかし無理がたたって49才の若さで召されました。凶作孤児、震災孤児、戦災孤児など生涯2,144人の世話をしました。因みに岡南教会は岡山孤児院の元敷地に建っています。
Ⅰ.生けるキリストに結ばれる。(18~20)
 「孤児とはしない」とは、生けるキリストに結ばれることです。
孤児とは「身寄りない子」という意味ですが、そのほか孤島、孤立、孤独など、淋しく、悲しい言葉が思い浮かびます。C・モルガンは「悲しみとは欠如の意識である。最深の欠如は神の欠如である」と述べています。
 主イエスは「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰ってる来る」と慰めの言葉を語られました。キリストの再臨はいつの日か実現するものです。しかし再臨を待つ必要はありません。なぜなら「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」と言われているからです。つまりキリストを信じる者は、すでに生けるキリストと結ばれているのです。
Ⅱ.愛の絆で結ばれる。(21)
 「孤児とはしない」とは、愛の絆で結ばれることです。
主イエスは「わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」と言っておられます。主イエスは、ご自分の命を捨てるまでに私たちを愛して下さいました。私たちは主イエスのために如何ほどの愛を捧げているでしょうか。勝利の人生を歩む秘訣は、私たち自身もその持てる時間、賜物、経済、労力などすべてを主イエスに捧げ、従い、強固な愛の絆で結ばれることです。
Ⅲ.神の言葉で結ばれる。(22~24)
 「孤児とはしない」とは、神の言葉で結ばれることです。
主イエスは「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう」、「わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない」と言っておられます。また、「わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である」とも言っておられます。神の言葉とは聖書の言葉です。私たちは次年度「聖書通読運動」を展開することになりました。多くの方々がこれに参加されることを期待しています。一人の決意は弱いものです。一同で心を合わせて、神の言葉にしっかりと結ばせて頂きましょう。
主イエスは私たちを孤児とはなさいません。復活の主イエスは今も私たちと共に存在し、私たちを愛し、神の言葉を語って下さっているのです。