聖 書:出エジプト記33章12節~16節
(12) モーセは主に言った、「ごらんください。あなたは『この民を導きのぼれ』とわたしに言いながら、わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。しかも、あなたはかつて『わたしはお前を選んだ。お前はまたわたしの前に恵みを得た』と仰せになりました。(13) それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」。(14) 主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。(15) モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください。(16) わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」。 

 〝臨在〟という言葉は一般の辞書にはなく、私の臨在の理解は信仰生活の中で自然に会得されてきたものと思われます。私がよく聞かされたお言葉に、「わが臨在汝と共に行くべし」(文語)があり、これは文語訳聖書のお言葉と思っていましたが、文語訳では「我親汝と共にゆくべし」で、 〝臨在〟の文字がなかったことから、〝臨在〟に関心を寄せるようになりました。P.ウイルクスの著書の中に「上記の言葉は英語の〝 My presence will go with you〟の日本語訳である。」と記されていました。その頃 presence を臨在と訳し、キリスト教専用語として遺された先人に感謝しみ名を崇める者です。
Ⅰ.臨在信仰には主の同行が伴います。(14a)
 新共同訳は「わたし自ら同行し」、77人訳は「わたしがお前を先導し」とあり、我親→わたし自身→わたし自ら→わたし、と次第に平易になってきています。今も言い続けられているのが「わが臨在汝と共に行くべし」です。「内住の主こそ臨在であり、その主と共に生きていくところに臨在がある」(小島伊助)と言っておられますが、〝臨在〟とは主を信じる者の内に生きておられる主であって、その主と共に生きるのが臨在信仰です。代々の聖徒たちは臨在信仰に生き、それぞれの生涯を全うされたのです。14節の主のお言葉の背景には、モーセの神に対して必死で訴えるイスラエルの民への執り成しがあったのです。その結果、神が初心を変えられて約束されたお言葉なのです。イエス様は「失望しないで常に祈るように」(ルカ19:1)と教えておられますが勝利するまで祈る者とならせて頂きましょう。
Ⅱ.臨在信仰には安息が伴います。(14b)
「そしてあなたに安息を与えるであろう」(14b)。これはカナン入国による安息の約束ですが、狭義では臨在信仰には安息が保証されるのです。そしてこの安息は神のお働きによってもたらされた恵みなのです(創 1:31-2:3)。私たちが主の贖いのみわざを信じ受け入れるとき、魂に安息が与えられます。聖日礼拝も神から賜わる安息であり、祝福なのです。
Ⅲ.臨在信仰はきよめの信仰です。(14b)
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:19b-20a)。これがパウロの臨在信仰です。主を信じる者の内に生きておられる臨在の主がきよめ主であり、私たちが十字架の主を信じ受け入れ、すべて主に委ねる時、聖霊は内に満ちて下さいます。これが〝きよめ〟です。私たちクリスチャンは内に持つ宝(キリスト)を見せていく(証)者でありたいと思います(Ⅱコリント4:7)。
 イスラエルの民が雲の柱、火の柱なる臨在をもって導かれたように、私たちも臨在信仰に生かされ、主の安息ときよめに与りつつ信仰生活を続けて参りましょう。