聖 書:マタイ11章28~30節

(28) すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(29) わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。(30) わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

(序論)このみ言葉によってどれほど多くの人が、人生の重荷を下ろし、真の安息に入れられたことでしょう。
Ⅰ. すべての人が招かれています。
主イエス様は、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」と言われます。「苦労している者」とは、他の訳では「疲れた人」「疲れ果てた人」と訳されています。この「疲れ果てた苦労している人」とは、「打つ」という言葉から生まれた言葉だそうですが、悲嘆のあまり胸を打ったり、頭を打つ所から来ていると言われます。いろんな便利なものが増えましたが、「重荷」はいっこうに減らないで、「疲れ果てている人」が増えているのではないでしょうか。余りの困難と重圧のために疲れ果て、自分では、どうすることも出来なくて、胸を打ち、頭を抱えという人々が何と多い時代でしょうか。携帯電話で、あるいはインターネットで、何処にいても、自分の好きな時間に、あるいは匿名で、自分の考えが伝達できるという一見便利な時代です。しかし、便利さの裏に、自分の都合が悪ければ、プッンと直ぐ切ってしまう。切れてしまうそのような人が増えているのではないでしょうか。人々は、人格的な触れ合いを失い、ますます孤独になっています。親子の間で、夫婦の間で、お隣同士であるべきコミュニケーションを失い、問題を抱え、心の傷ついた人の多い時代です。そのような意味での「重荷を負って疲れ果てている人」が多いと思います。イエス様は、どんな人にも、本当の休みを与えようとして招いていてくださるのです。
Ⅱ. すべての重荷が除かれます。
 どんな人でも、イエス様のところに行く時、今まで負ってきた重荷をすべておろすことが出来るのです。28節に、「私のところに来なさい」との招きの言葉があります。そのままで、ただ信じ、信頼して、イエス様に近づく時、イエス様も、私たちに近づき、本当の平安、本当の安息を与えてくださいます。
Ⅲ. すべの人が生きがいを見出します。
 最後に申し上げたい。29~30節、竹田羔一という先生は、ここを良く「重荷の交換」と言っておられました。罪と自己中心の重荷に代えて、使命に生きる感謝と喜びと勝利の人生に変えてくださるのです。30節の「負いやすく」と訳された言葉について、ある方は、その意味を、「ピッタリすることだ」と言っています。くびきは、グスグスでも、きつ過ぎても具合が悪い。「ピッタリすること」が肝心です。主は、私たちに「ピッタリ」した人生、生きがいある日々を与えてくださいます。どんな大変なことも、主と共に負う重荷は、負いやすい、軽いのです。私たちは、主イエスを信じる時、すべての重荷は取り去られ、それに代えて、イエス様を信じた喜びを証するという使命が与えられます。「こんな弱く小さい者でもお役に立てた」という生きがいが与えられるのです。自分を楽しませるだけの人生は、やがていつか行き詰まります。しかし、「他の誰かのために、私は生かされている。誰かが私を必要としてくれている」と知った時、人ははじめて生きる意味を見出すのではないでしょうか。
(結論)いかがでしょう。今日、このような人生を送りたい。本当の安息を得たいと願っておられる方はいませんか。難しくはありません。ただ主により頼み、主イエスに近づき、十字架は私のためであると信じればよいのです。