聖 書:エペソ1:7~12
(7) わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。(8) 神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、(9) 御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。(10) それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。(11) わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。(12) それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。
先月は7節の「御子にあって」の意味を黙想しました。今日は7節の後半部分「その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである」を中心に黙想しましょう。
1.イエス様が私達を受け入れる
信じて一つになるためには真心から受け入れなければなりません。私達はイエス様を受け入れたので「あがない、罪過のゆるし」を受けました。「信じる」ことは真心で「受け入れる」ことから始まります。一つになることはまず真心から受け入れることです。「受け入れる」ことは一方的になってはいけません。イエス様が私を、私がイエス様を互いに受け入れなければなりません。私達はイエス様を信じて、イエス様を心の中に受け入れました。これからも受け入れ続けなければなりません。イエス様も私達を受け入れて下さいました。これからも私達を受け入れ続けて下さいます。
エペソ書1章では「受け入れる」意味を理解しやすい生活用語で説明してくれました。5節の「神の子たる身分」がそれです。ちなみに新改訳では「ご自分の子」、新共同訳では「神の子」、韓国語の聖書では「養子」になっています。
いのちのことば社の新聖書辞典から養子の意味を探してみました。
「ローマの司法制度によれば、養子とされる場合、証人の前で公式に養父母に売り渡され、それから後はその家に生まれた者のように取り扱われ、家族の一員としての身分が確立する。イエス様を信じる者は内面的に変えられていくだけでなく、真の神の子イエス様によって、神の子としての身分が客観的に保証されるのである。」
イエス様を信じる前の生活は罪の泥沼の中でした。一日中、考えることは罪ばかりでした。それでも主は私達を受け入れて下さいました。こんなに取るに足りない者を受け入れて下さいました。これからも受け入れ続けて下さいます。イエス様が私達を「受け入れ続けて下さる」と言う表現は誤解を招く表現ですが、愛し続けて下さることが私達の目には受け入れ続けて下さるかのように見えます。
2.私達がイエス様を受け入れる
イエス様は私の主です。「御子なる主イエス・キリスト」です(2,3,15,17節)。「父なる神様、主イエス・キリスト、助け主聖霊様」の修飾語を混乱してはいけません。イエス様は私達を罪の裁きから救って下さった救い主、メシアであり、人生の全てのことにおいての主です。私達がイエス様を心の中に受け入れると言う意味は、購いと罪の赦しを与えて下さった、救い主メシアとして受け入れることです。そして、これからも人生の主として受け入れ続けなければなりません。洗礼を受けるとき、メシア(救い主)として受け入れました。これは一回限りのことです。その後、人生の主人として生涯継続して受け入れ続けなければなりません。人生の主としてこれからもずっと告白し続けなければなりません。私達が主を受け入れ続けることは従う形で現れます。イエス様が私達を受け入れ続けて下さることは主の慈しみ深い愛の形で現れます。主を受け入れ続ける生活は11節の「御旨の欲するままに」従って生きることです。父なる神様が「御旨の欲するままにすべての事」を進めていくと全部が良きことばかりです。全部が善です。皆の喜びになります。しかし、私達が「旨の欲するままにすべての事」を進めていくと全部が悪と罪に満ち溢れるようになります。神の御旨の欲するままに従っていきましょう。そうすればイエス様は私達の主になって私達を導いて下さいます。