聖 書:エペソ2:1~3
(1)さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、(2) かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。(3) また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。
私達はエペソ1章で、三位一体の神の素晴らしい救いのお働きを見ました。そして、救われた私達の栄光と力、権勢を見ました。今日からは2章ですが、救われる前の悲惨な過去を振り返ってみますが、もう二度とその時代には帰りたくありません。2章に救いの前と後の違いを比較していることが重要なポイントです。イエス様を信じる前の時と信じた後を比較する内容が多いです。今日の箇所を通して、イエス様を信じる前の時と信じた後の現在の変化を振り返ってみて下さい。
1.罪過と罪とによって死んでいた
「罪過」と「罪」は単数ではなくて複数です。私達の過去の姿は一つ、二つの罪ではなくて、数多くの罪のかたまりでした。「罪過」は横滑り、脱線の意味があります。「罪:ハマルティア」は的に当てることが出来ないと言う意味があります。私達の過去の姿は死んでいる状態でした。死の意味は分離です。神と分離されると人間は自分勝手な生き方になります。自分勝手に生きることは自由を意味するのではなくて、あらゆる悪に縛られることを意味します。
2.間違ったものに従っていた
1)この世のならわしに従う
ならわしと言うものは「習慣、慣例」の意味です。新改訳では「流れ」と書いてあります。一つの時代の流れ、流行を意味します。「神々」と言う意味もあります。一つの時代と言う意味もあります。この世の政治の統治者、霊的な統治者であるサタンと言っても良いです。一つの時代の流れは神のように恐ろしくて、この世の統治者のように怖いです。時代の流れは一人の人間が逆らうことが出来ないほど力強いものです。「この世のならわしに従う」の意味はその時代の流れに合わせてしまうことです。イエス様がいない人々の特徴はこの世の神々に従い、この世の政治家に従い、人々の流れに合わせてしまうことです。弱い一人の人間が時代の大きな流れに逆らうことは難しいことです。社会のならわしに一人の個人が立ち向かうことは難しいです。社会には盲信、各家庭には迷信と言うならわしがあります。なぜ、未信者はこれらのならわしに嫌々ながら従うのですか?恐れに縛られているからです。
2)空中の権をもつ君に従う
人間が間違ったところに従うもう一つは悪の統治者です。この悪の統治者は私達の主であるイエス様とは違って、罪と死と脅かしで統治する残酷な統治者です。空中の権をもつ君は現在も不従順の子らの中に活発に働いています。
3)肉の欲に従う
人間が間違ったところに従っているもう一つのことは外部からの力ではなくて、内部の弱さです。それは肉の欲です。各個人の肉の欲が私達を罪の所に導きます。霊は神様を求めますが、肉は常に罪を慕い求めます。救われているクリスチャンでさえ、肉の欲が大きくなると、だんだん肉の欲に縛られることになります。
3.欲するままを行っていた
天の神様は1:11節で「御旨の欲するままにすべての事をなさ」います。それは、キリストにあって私達をあらかじめ定めて下さって、神の民として選んで下さることです。神が御旨の欲するままになさる全てのことは善であり、皆の喜びになります。しかし、人間が「肉とその思いとの欲するまま」に行うところに破壊と独裁があります。
4.生れながらの怒りの子であった
私達の過去の姿の中で何よりも悲惨な運命がこれです。これ以上に悲しい運命はありません。いくら努力しても神のみ前で生まれながらの怒りの子であるこの運命から自力で逃れることは出来ません。想像だけでも恐ろしいです。