聖 書:ゼカリヤ14:1~9

(1)見よ、主の日が来る。その時あなたの奪われた物は、あなたの中で分かたれる。(2) わたしは万国の民を集めて、エルサレムを攻め撃たせる。町は取られ、家はかすめられ、女は犯され、町の半ばは捕えられて行く。しかし残りの民は町から断たれることはない。(3) その時、主は出てきて、いくさの日にみずから戦われる時のように、それらの国びとと戦われる。(4) その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。そしてオリブ山は、非常に広い一つの谷によって、東から西に二つに裂け、その山の半ばは北に、半ばは南に移り、(5) わが山の谷はふさがれる。裂けた山の谷が、そのかたわらに接触するからである。そして、あなたがたはユダの王ウジヤの世に、地震を避けて逃げたように逃げる。こうして、あなたがたの神、主はこられる、もろもろの聖者と共にこられる。(6) その日には、寒さも霜もない。(7) そこには長い連続した日がある(主はこれを知られる)。これには昼もなく、夜もない。夕暮になっても、光があるからである。

 時の経つのは本当に早いもので、今年も年末感謝礼拝を迎える時となりました。時の経つ早さを思えば、21世紀(ミレニアム)を迎えた時から早くも10年が経過したことになります。この10年間の世相の移り変わりは政治、経済、情報通信、教育、文化等々、どの分野においても、過去のどの時代よりも早く、大きく変化した時代と言えると思います。
 本日のテキストはゼカリヤによる「主の日」(世の終末、キリストの再臨)に関する預言を記した箇所です。特に「夕暮れになっても、光がある」(7)の言葉を中心にして、主の恵みを味わうことに致します。
Ⅰ.世界の夕暮れ
 聖書は、神が創造された世界はやがて終末が訪れ、旧天旧地は滅亡し、新しい天と新しい地が再創造されることを教えています。このゼカリヤの「見よ、主の日が来る」(1)という預言もその一つです。「主の日」とはキリストが再び来られる日を意味しています。「こうして、あなたがたの神、主はこられる、もろもろの聖者と共にこられる。その日には、寒さも霜もない。そこには長い連続した日がある(主はこれを知られる)。これには昼もなく、夜もない。夕暮れになっても、光がある」(5-7)のです。「夕暮れ」という言葉には、〈暗い、寂しい、悲しい、敗北、終わり〉というような、悲観的なイメージが漂っています。しかし聖書は、世界の夕暮れには〈光がある、希望がある〉ことを教えているのです。
Ⅱ.時の夕暮れ
時は連続してますが、一日にも、一か月にも、一年にも一つの区切りとしての終わりがあります。春・夏・秋・冬にもそれぞれ始まりがあり、終わりがあります。お互いの仕事、学び、家事、趣味、訓練等々において同じことが言えます。それらは漫然と続くのではなく、いつかは必ずピリオドを打つべき時が訪れるのです。聖書は「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」(3:1)と教え、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)と教えています。こうした〈時の夕暮れ〉は、多くの場合、新しい希望という新しい主役にバトンを渡すことになります。
Ⅲ.人生の夕暮れ
人生にも夕暮れが訪れることもまた確かな事実です。聖書は「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル9:27)と教えています。P・トゥルニエは〈人生の四季〉という書物において、人間の〈発展と成熟〉という課題を取り上げています。「四季」と言いつつ、〈春・夏・秋〉を扱っています。私的には人生には〈冬〉はないものだと理解しています。そして、春は幼少期から青春期、夏は青春期から壮年期、秋は壮年期から老年期を意味していると理解しています。老年期を迎えた人々はよく〈年はとりたくないものだね〉と愚痴をこぼしますが、人生の夕暮れを避けて通ることのできるは人はいないのです。そうした場合に大きな慰めとなり力となるのは「夕暮れになっても、光がある」と言う聖書の言葉です。人生の夕暮れが人生の終わりではないのです。秋から冬への変化ではなく、秋から永遠の春へとキリスト者は発展、成熟していくのです。ここにキリスト者の真の希望が存在するのです。
 大晦日の明くる日は新年の元旦です。終わりと始めは連続しているのです。お互い人生の四季を希望と喜びをもって歩もうではありませんか。