聖 書:ヨハネ12:12~36

(12)その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、(13)しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。(14)イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは(15)「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。(16)弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。(17)また、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたとき、イエスと一緒にいた群衆が、そのあかしをした。(18)群衆がイエスを迎えに出たのは、イエスがこのようなしるしを行われたことを、聞いていたからである。(19)そこで、パリサイ人たちは互に言った、「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」。(20)祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。(21)彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。(22)ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。(23)すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。(24)よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(25)自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。(26)もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。(27)今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。(28)父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。(29)すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。(30)イエスは答えて言われた、「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。(31)今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。(32)そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。(33)イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。(34)すると群衆はイエスにむかって言った、「わたしたちは律法によって、キリストはいつまでも生きておいでになるのだ、と聞いていました。それだのに、どうして人の子は上げられねばならないと、言われるのですか。その人の子とは、だれのことですか」。(35)そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。(36)光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。

 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかしもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」という言葉は、名句中の名句と言えます。アンドレ・ジッドは「一粒の麦もし死なずば」を著しました。「狭き門」も書きました。彼は1945年にノーベル文学賞を受賞しました。
Ⅰ.預言された「一粒の麦」 (12~19)
 「一粒の麦」の話は〈イエスが人類の罪の身代わりとなって死ぬこと〉を人々に知らせるために、自然界の事実を例にとって語られたものです。このイエスの贖罪死は旧約聖書においてすでに預言されていました。この日は「過越の祭の六日前」の「翌日」、つまり日曜日でした。その日「大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った」(12-13)のです。この話はヨハネは簡略に書いていますが共観福音書(マタイ21:1-11、マルコ11:1-11、ルカ19:28-38)に記されています。ここで引用されている「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ」は詩篇118:25-26、「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」はゼカリヤ9:9からの引用です。このように一粒の麦として来られるメシアについての預言が成就するのですが、人々はすぐには理解することができなかったのです。
Ⅱ.「一粒の麦」の宣言 (20~26)
 いよいよイエスの使命が完遂されるクライマックスが近づきました。こうした重要な時に「数人のギリシヤ人がいた」(20)のは偶然ではありませんでした。彼らはピリポに「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」(21)と頼みました。そのことはピリポとアンデレによってイエスに伝えられました。その後「人の子が栄光を受ける時がきた。よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(23-24)とイエスは宣言されたのです。「すべてのわざには時がある」(伝道3:1)というのは真実な言葉です。こうしてイエスは「一粒の麦」として贖罪死することを公言されたのですが、それと同時に私たち一人ひとりに対しても「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい」と命令し、「そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう」(26)と約束して下さっているのです。

Ⅲ.「一粒の麦」としてのイエスの苦悶 (27~36)

ここに「時」が4回(27,31,32)出てきます。この時を前にしてイエスは「今わたしは心が騒いでいる。・・この時からわたしをお救い下さい。・・わたしはこのために、この時に至ったのです」(27)と叫ばれました。これはヨハネ福音書の〈ゲッセマネの祈り〉と呼ばれています。この祈りに対して、天からの声が「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」(28)と響き渡りました。人々には「雷がなった」、「御使が彼に話しかけた」ように聞こえたのです。更に人々にはイエスが「この地から上げられる」(32)という事は信じられないことでした。十字架が目前に迫っていましたから、「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」(36)と人々に信仰の決断を迫られたのです。
 現代は主の再臨に最も近い時です。「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある」(35)と主は言われます。「光がある間に歩いて、やみに追いつかれないように」(35)したいものです。