説教題:「最も大きな愛」 中島秀一師
聖 書:ヨハネ15:12~15
(12) わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。(13) 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。(14) あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。(15) わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
キリスト教は「愛の宗教である」とよく言われます。確かにこの表現はキリスト教の本質をよく言い表していると思います。ただこの言葉の本当の意味が、この世の人々にどの程度知られているかとなると多少心細くなります。
イエスは「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(13)と教えておられます。キリスト者はイエスの言葉をしっかり受け止め、イエスに従う者でありたいと願います。
Ⅰ.愛の源泉
イエスは「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」と言われました。ヨハネは「愛は、神から出たものなのである」(Ⅰヨハネ4:7)と教えています。〈ない袖は振れない〉という言葉がありますが、自分にない物を人に与えることはできません。イエスが「互に愛し合いなさい」と言われても、自分のうちに愛がなければ人を愛することはできません。イエスは決して無理な注文をされる方ではありません。私たちができないことを無理やり命令される方でもありません。聖書を注意深く読みますと、「わたしがあなたがたを愛した」と記されています。「愛した」とは過去の事実が現在もなお継続していることを表す時制、つまり私たちは十字架上の死という決定的な行為によって神に愛された者であり、今も尚愛され続けている者なのです。ここに愛の源があるのです。
Ⅱ.愛の実践
イエスは律法学者が「律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」と尋ねた際に「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』・・・『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」(マタイ22:37-39)とお答えになりました。ヤコブは「信仰も、・・・行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」(ヤコブ2:17)、パウロは「山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(Ⅰコリント13:2)と言っています。〈絵に描いた餅〉と言う言葉がありますが、それはどんなに美しく描かれていても、食べることはできない、従ってお腹も大きくはならない。それは実践の伴わない信仰にも当てはまる言葉です。イエスの生涯は「愛」そのものでした。イエスは当時人々から卑しめられ、疎外されていた罪人や病人や女性たちの友となって下さいました。そうした愛の実践の極致は十字架であったことは申すまでもありません。
Ⅲ.最大の愛
イエスは「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と言われました。それはご自分が十字架において命を捨てることを暗示した言葉ですが、私たちお互いの人生においても、イエスに倣って実践すべき行為であることを迫られる言葉でもあります。私たちの生涯は一度限りであり、命は二つとしてないものですから大切に扱うことは当然のことです。しかしイエスを信じ、従うということは、いつでもイエスの御旨とあれば、喜んで友のために命を捨てるという覚悟ができておらなければなりません。塩狩峠の長野政夫さん、タイタニック号のジョン・ハーパー牧師などの犠牲的愛ほど私たちを感動させ、勇気づけるものはありません。
「わたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(14)とイエスは言われました。イエスは私たちを〈僕〉ではなく〈友〉として扱って下さるのです。ですから、私たちは自分のためにではなく、たとえ小さなことであったとしても他人のために生きる者でありたいと願ってやみません。