聖 書: ピリピ人への手紙1章12節~17節

(12) さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。
(13) すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、
(14) そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった。
(15) 一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。
(16) 後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、
(17) 前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。

 中国の故事に「人間万事塞翁が馬」という話があります。「昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は『そのうちに福が来る』と言った。やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は『これは不幸の元になるだろう』と言った。すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。人々がそれを見舞うと、老人は『これが幸福の基になるだろう』と言った。一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという。」(『准南子』)。この話は、人生はいつ幸せが不幸に、不幸が幸せに転じるかわからないから、安易に喜んだり悲しんだりすべきではないということを教えた譬えです。
 パウロは「わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになった」(12)と言っています。つまりパウロは自分が信じる神は、運命論者のようではなく「万事を益となるようにして下さる」(ローマ8:28)お方であることを証ししているのです。
Ⅰ.キリストのための入獄
 パウロにとって「わたしの身に起った事」とは、「獄に捕われている」ことを意味しています。私たちの人生には様々な試練があるものです。その場合、私たちは得てして失望落胆したり、悲観的になり、自暴自棄に陥りやすいものです。ダビデは「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩119:71)と言っています。パウロはどうしてこの危機を「福音の前進に役立つ」と言えたのでしょうか。それは〔キリストのため〕であると捉えることが出来たからでした。私たちが経験する試練もまた、パウロと同じように「キリストのため」であると信仰的に受け止めるならば私たちの人生は大きく変わることでしょう。
Ⅱ.パウロの入獄による福音の前進
 キリストの願いは福音が多くの人々に伝えられる事です。パウロの願いは「兵営全体」に福音を伝えることでしたが、当時の状況ではそれは至難の業でした。しかし入獄によって福音が「兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかに」(13)なっていったのです。パウロは「肉体に一つのとげ」が与えられた弱い人でした。パウロは主によって「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と励まされて以来、「喜んで自分の弱さを誇ろう。~わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」という人に変えられたのでした。(Ⅱコリント12:7-10・参照)。福音の前進は「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊による」(ゼカリヤ4:6)とあるように、すべては聖霊の働きによるものです。ですから神は自分の力を誇る人ではなく、自分の弱さを知るが故に、聖霊の力に寄り頼む人を用いられるのです。

Ⅲ.パウロの入獄による福音の宣教

パウロの入獄によって人々は「ますます勇敢に、神の言を語るようになった」(14)のです。彼らはパウロの入獄によって、初めて神から托されたキリスト者としての使命を再確認したのでした。いつの時代にあっても福音宣教の担い手はすべてのキリスト者なのです。教会内にたとえ少数であっても、宣教に熱心な人がいれば、その影響は多くの人に及びます。そしてたとえどのような動機であったとしてもキリストが宣べ伝えられているならば、パウロにとってはそれは大きな喜びとなったのです。
今日、〔私は弱い人間であって、キリストのためには何の役にも立っていない〕と思っている人はいないでしょうか。お互い、「福音の前進のために生きる」者とさせて頂こうではありませんか。主は、あなたを必要とされているのです。アーメン。