説教題:「福音の同労者」           中島秀一 師
聖 書:ピリピ人への手紙2章19節~30節

(19) さて、わたしは、まもなくテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって願っている。それは、あなたがたの様子を知って、わたしも力づけられたいからである。
(20) テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。
(21) 人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。
(22) しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。
(23) そこで、この人を、わたしの成行きがわかりしだい、すぐにでも、そちらへ送りたいと願っている。
(24) わたし自身もまもなく行けるものと、主にあって確信している。
(25) しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。
(26) 彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。
(27) 彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。
(28) そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。
(29) こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。
(30) 彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである。

本日は当教会の創立者・中田羽後師と森山諭師の召天記念聖日です。中田師は1896年9月9日出生、1974年7月14日召天。享年78才。森山諭師は1908年2月14日出生、1996年7月22日召天。享年88才。年の差は一回りでさる年でした。
両師の出会いは1960年ですから中田師64才、森山師52才の時でした。その後14年間同労者としての働きに従事されました。出生年は違いますが、召天が同月であることから、2005年度教会総会で7月第二聖日を「中田羽後師、森山諭師召天記念聖日」と定め、今日に至っています。
Ⅰ.パウロとテモテ (19~24)
 パウロについては使徒行伝にその活動の詳細が記録されています。聖霊降臨後にエルサレム教会が誕生し、その後彼はアンテオケ教会から世界宣教に派遣されます。その結果、多くの教会が設立されますが、ピリピ教会はその中の一つです。しかし宣教は一人で出来るものではなく、信頼する同労者が必要でした。テモテはその中でも最も信頼する同労者の一人でした。
テモテはまだ年若く(Ⅰテモテ4:12)、体も気も弱かった(Ⅰテモテ5:23,Ⅰコリント16:10)ようです。こうしたテモテを同労者として高く評価した理由の一つは「子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきた」(22)という一点にあります。パウロと一緒に福音に仕えた人は他にも大勢いました。しかし「子が父に対するように」仕えたのはテモテのみでした。
パウロは今獄中にあって、彼が開拓したピリピ教会の「様子を知って、わたしも力づけられたい」(19)と願っています。そのためには「親身になってあなたがたのことを心配している」(20)テモテをパウロの名代として送るのが最適であると判断しているのです。親子のような堅い絆で結ばれたパウロとテモテの信頼関係は真の同労者と呼ぶに相応しいものであります。

Ⅱ.パウロとエパフロデト (25~30)

 テモテのピリピ派遣は、パウロの「成行きがわかりしだい」(23)という条件付でした。そこで次に選ばれたのがエパフロデトでした。彼はパウロの「同労者で戦友である兄弟」(25)でした。彼はピリピ教会から派遣された人で、パウロは「あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデト」(25)と記しています。彼はひん死の病気にかかりましたが、「自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている」(26)とパウロが記しているように、実に控え目な、心優しい人でした。
彼はパウロのところに献金を届けただけでなく、パウロの所に留まり、「彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである」(30)と言われる程までに、まさに命がけでパウロの宣教を助けたのでした。彼は一信徒ではありましたが、使徒以上の宣教に対する情熱を持って主に仕え、パウロの働きの片腕として宣教に従事しました。パウロとエパフロデトは主にある素晴らしい信頼関係で結ばれた福音の同労者でありました。
Ⅲ.中田羽後と森山諭
中田羽後はわが国キリスト教界の重鎮であった中田重治の子息、青山学院から東京聖書学院に進み、米国留学を果たし、わが国における教会音楽家の第一人者として名を馳せる。森山諭は東北会津の農家の長男。独学独歩の青年は18才にして福音の真髄に触れて新生を経験。その後、独立伝道者として講演に著述に東奔西走、いつしか押しも押されもせぬ当代随一の伝道者となる。
これほど大きな違いのある両者が、神の摂理のうちに出会い、福音の宣教と教会形成において一つとなり、14年間の同労者としての営みの中で今日の当教会の礎を築いて下さったのです。
私たちは受け継いだ先祖の地境を移すことなく、天幕の場所を広くし、住まいの幕を張り広げ、主にある同労者として与えられた使命の道を歩ませて頂きましょう。