聖 書:ピリピ人への手紙3章10節~16節
(10) すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
(11) なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
(12) わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
(13) 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
(14) 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
(15) だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。
(16) ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである
2012年7月27日(金)~8月12日(日)の17日間、第30回オリンピック競技会が英国ロンドンにおいて行われます。世界204の国と地域から選出された選手たちが26競技を競い合います。わが国からは陸上71名、水泳60名、サッカー50名をはじめ総計518名が参加します。今年の夏は眠られない夜が続きそうです。選手たちに「目標は何ですか」と尋ねますと、必ず「金メダル」という、答えが返ってきます。聖書は「あなたがたは知らないのか、競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい」(Ⅰコリント9:24)と教えています。
Ⅰ.キリスト者の目標
「目標」について広辞苑は[目的を達成するために設けた、めあて]と説明しています。企業などにおいては、目標とは目的達成のための方策・手段と捉え、短期的目標、中期的目標、長期的目標などを具体的に策定するのです。しかしパウロが「目標を目ざして走り」(14)と言っているのは、[目的を達成するために設けた、めあて]ではなく、「人生の到達点(ゴール)」そのものを意味しているのです。一般的には人生の終着駅(ターミナル)は[死]であると捉えますが、パウロは「なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」と言ってます。つまりパウロにとっての[死]は終着駅(ターミナル)ではなく、単なる通過点に過ぎないものなのです。キリスト者の目標もこのパウロの言葉の中にすべてが言い表されているのです。
Ⅱ.キリストに捕らえられた者 (10~12)
パウロは「競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」(Ⅰコリント9:25)と言っています。パウロにとっての節制は次のような言葉から知ることができます。
1.キリストとその復活の力とを知ること=キリストの人格とその力
2.その苦難にあずかること=キリストの苦難
3.その死のさまとひとしくなること=キリストの品性
4.なんとかして死人のうちからの復活に達したい=永世への熱烈なる願望
こうしたパウロの信仰姿勢は、ともすれば完全主義者や自力主義者のように誤解されやすいので、パウロは「それを得たとか、すでに完全な者になっているというのではなく、ただ、捕らえようとして追い求めている」(12)、それは「キリストによって捕らえられているからである」(13)と釈明しています。
Ⅲ.ただこの一事を努めている (13~16)
パウロは今一度「わたしはすでに捕らえたとは思っていません」と釈明しています。つまりまだゴールした者ではなく、まだ競技者として、以下のように「ただこの一事を努め」つつ、ゴール目ざして走っていることを強調しています。
1.後のものを忘れ、
2.前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3.目標を目ざして走り、
4.神の賞与を得ようとして努めている。
私たちはこの世にあっては現役の競技者です。この地上における使命を終えた暁に神は私たちをゴールで迎えて下さいます。ですからこの世にいる間は「達し得たところに従って進むべき」なのです。「全き人」について、アウグスティヌスは「自分は完全などとは言えないという自覚」であると説明しています。どこまでも謙虚になって、他人と比べるのではなく、自分自身が導かれているところに従って歩ませて頂きましょう。