聖 書:ピリピ4章8節~9節

(8) 最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。
(9) あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。

キリスト者の基本的な生き方を示す言葉は聖書の中にいくつも記されています。その代表的なものは「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)ではないでしょうか。恩師・沢村五郎は「佃煮を買えば、わざわざ竹の皮に包んで下さいと言わなくても竹の皮に包んでくれる。それは添え物である。まず神の国と神の義を求めるならば、食物や着物は添え物として神は与えて下さる。添え物ばかり求めている人は、竹の皮のように味気ない人生を送らざるを得ないのは至極当然なことである」と語りました。
 先回は「神の平安」について学びました。今回は「平和の神」について学びます。聖歌の中に「賜物より癒しより/与え主ぞ/さらに良き」(#598)という歌があります。私たちは「神の平安」を求めますが、更に「平和の神」を求めると共に、「平和の神が共におられる」という確信に満ちた者でありたいと願います。
Ⅰ.心にとめなさい。(8)
主イエスは昇天を前にして「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるであろう」と弟子たちに語りました。[臨在]はまさしく、主イエスの遺言であり、遺産でありました。J・ウエスレーは「われにとりて最も良きことは、神共にいますことなり」と臨終の際に語りました。このことはすべてのキリスト者の慰めの言葉であり、信仰の根幹に横たわる力強い真理です。
ここでパウロは「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」と述べています。パウロは「信仰による義人は生きる」(ローマ1:17)という言葉に代表されるように、「信仰」を強調した人です。それに対してヤコブは「人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブ2:24)と「行為」を強調した人です。一見正反対のように見えますが、そうではなく両者はまさしく真理の両面を述べているのです。
 私たちの信仰はともすれば二者択一の論理に陥ってしまう面があります。[神の国とこの世・信仰と趣味・霊と肉体・信仰と生活」などです。パウロは内的な信仰を強調しつつ、この世に生きているという現実を踏まえて、この世にある「賞賛に値するもの」を「心にとめなさい」と教えているのです。
Ⅱ.実行しなさい。(9)
主イエスは「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。(マルコ12:30-31)と言われました。パウロは「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい」と述べています。
パウロはこれまでピリピやその他の教会の人々に対して「最後に、兄弟たちよ」と呼びかけながら、「福音」が単なる観念や知識に留まることなく、愛の行為として実際的に、具体的に、他者に対して「実行しなさい」と述べているのです。
 これまでわが国の教会は社会派と呼ばれる教会と、福音派と呼ばれる教会に二分されていました。前者はイエスの人性を重視し、後者はイエスの神性を重視してきました。しかしイエスは神性と人性を兼ね備えた方ですので、二つの教会が相補う形ではなく、一つの教会が双方を兼ね備える存在となることが求められているのです。「心にとめなさい。実行しなさい」。「そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいます」のです。
 「平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように、また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、
責められるところのない者にして下さるように。」(Ⅰテサロニケ5:23)。