聖書 ピリピ人への手紙2章6節~11節

金  言 「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(ピリピ2:8)

 わたしはかつて国際線の飛行機で一度だけビジネスクラスのシートに搭乗したことがある。航空会社のミスで普通席の席数より多く予約客を受けて搭乗者を乗せてしまうオーバーブッキングのためだった。そのおかげでわたしは普通席価格でビジネスクラスと同じ待遇を受けられ上機嫌だった。人間は予期しない高待遇は喜べるが、反対に当然の権利を踏みにじられ不当な扱いを受けると、憤慨して不平不満が出てくるものだ。
 しかし、人として生きたイエス・キリストの生き方はそれとは全く反対であった。

1.神の身分を捨てられたイエス
 キリストは、「神のかたちであられた」(6)とあり、新改訳では「神の御姿である方」新共同訳は「神の身分」と訳す。イエス・キリストを「御子は、見えない神のかたち」(コロサイ1:15)といっている。要は目には見ることのできない神ご自身は、人間と意思の疎通ができる神のかたちを見せるために御子イエス・キリストという人となった。このお方はわたしたちの人類史上に33年の短いご生涯を生きられ、人々に神の国を語り、人を救いに導いた。普段イエスの姿はイスラエルの人と何ら変わるところはなかった。ところが一度だけキリストが神のかたちに目の前で変貌する姿に3人の弟子たちは遭遇して驚嘆する。「彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。」(マタイ17:2)。このような本来の神の御子である姿を惜しむことなく捨て去り、あえて普通の人間と同じ者になられた。なぜならイエスが地上に来られた究極の目的は、「大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。」(ヘブル2:17)からだ。

2.へりくだり従順なしもべイエス
 キリストは「神のかたち」から自分を無にして「しもべのかたち」(7)をとられた。イエスは神の御子でありこの世界を創造された王の王であられるのだから、家臣がぬかずきかしずかれて当然のお方だが、自ら「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」(マタイ21:28)と言ってしもべのようにへりくだられた。その従順なお姿は、十字架の死に至るまで少しも変わらなかった。それゆえ神は御子を「罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。」(ローマ8:3)。イエスはわたしたちを自らの罪と滅びから救うためなら、十字架で味わう恥や苦しみもいとうことなく喜んで受けられたのだ。「従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル上15:20)と言われ、神に対して従順であることはどんなささげものより優れている。

3.至高の座に着座された御子イエス
 イエスは神の身分に固執せず、十字架で死なれて命を捨てられた。誰かに強要されて命を捨てたのではない。イエスは言われた。「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」(ヨハネ10:18)。神は死に至るまで従順を貫いたイエスをよみがえさせることで、再び神の高き御座に引き上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになられた。今イエスは使徒信条にあるように「天に上り全能の父の右に坐しておられる」。自らが死んでよみがえることで、救いを成し遂げられた御子イエスは再び至高の座に着座されて永遠を支配される。

<今日の祈り>
イエスよ、あなたは神の身分でありながら恐れ多くもそのご身分を捨てて、わたしたち人の罪をゆるすために、罪の罰を身代わりとなって十字架にかかって死に至るまでもへりくだり神に従順であられました。それゆえ神はあなたを何よりも高く引き上げられました。わたしは御名をたたえあがめます。