聖 書: 第一テモテ2:4~6
(4)神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
(5)神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。
(6)彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。
本年の教会標語を煎じ詰めれば、宣教が主題であると思う。宣教について語っていく。まず、私たちが神様の恵みによって救いに与り、神様によって今日ある。私たちを動かす力は神様の恵みであることを、3回にわたってお話ししたい。
Ⅰ.仲保者イエス様
神様の願いはすべての人が救われることである。すべての人が神様と出会い、信じることができる。しかし、人は神様を見ることはできないので神様はイエス様をこの世に送ってくださり、神様ご自身を見せてくださった(ヨハネ1:14、18)。神様と人をつなぐ存在としてイエス様は仲保者である。この言葉は新約聖書では他にへブル人への手紙に3か所あるだけである。聖書の中でも大事な言葉、思想になる。イエス様は、直接会えない神様との間をとりもってくださる。
Ⅱ.あがない主イエス様
教会に来る方たちは、まじめに生活を送られている。私たちと神様との間には罪や不義という隔てがある(イザヤ59:1・2)。聖書は、「すべての人は罪を犯したために、神の栄光を受けられなくなっており」と言う。イエス様は罪に捕えられている私たちのあがないとなられる。新約聖書であがないという言葉は大きく2つの言葉があり、ここの言葉の語源は身代金という意味である。罪の奴隷となっている私たちを買い取って、自由にしてくださるのが、イエス様のあがないの業である。
Ⅲ取り成し手であるイエス様
もう一つ、取り成し手としてのイエス様である。ユダヤ人の共同体には大祭司がいた。へブル人への手紙はイエス様が私たちのために、天から来られた永遠の大祭司である。私たちのための取り成し手である(へブル7:24~26)仲保者であるということは以前から続いている救いといえる。あがなってくださるのは私たちのこの時の救いである。取り成し手としてはこれから将来に向かってである。
結 論)
神様がなさった業で、天地創造は神様の大いな力を感じ、流れるようにできていったように受け止められる。人間の救いのために働かれた業は、罪の始まりからイエス様の誕生までの時間は長かった。イエス様は悲しみや痛みの生涯であった。人を一人救うために神様は天地を造られる以上の大きな力を必要とされているのかも知れない。Ⅱコリント5:17「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。」造られたという言葉は、創造したという言葉である。天地創造の力が私たち一人一人に及んでいる。感謝し、この愛に応えていく。ここに宣教の基盤がある、宣教の力は生まれていく。