聖 書:ルカ15章1~7節
(1)さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
(2)するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
(3)そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、
(4)「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
(5)そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
(6)家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
(7)よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。

イエス様の宣教の始まりを前回見た。マルコ1:15「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」という最初のメッセージが出てくる。ここでイエス様が語られた神の国はイエス様の中心のメッセージの一つである。神の国について回を重ねて見ていく。

Ⅰ.神の国は来ている
神の国は旧約以来、ユダヤ人の意識の中にあった。国という言葉は支配とも訳される。神の支配される国は、国王は神様ご自身、神の国の構成員は神の民である。ルカ17:20にはパリサイ人がイエス様に神の国はいつ来るのかと尋ねている。彼らは神の国について、いつという時を尋ねている。イエス様の答えは、ここにある、あそこにあるとも言えないと答えられたようにあるという場所について答えられた。マルコ1:15を引照したように、神の国はイエス様が来られたことによって近づいた。いつ来るのかと問われるなら、もう来ているという答えになる。イエス様が来られて神の国は始まっている、次に神の国はどこにという場所が問われる。

Ⅱ.神の国は交わりの中に
ルカ17章でのイエス様の答えは口語訳聖書では「あなたがたのただ中にあるのだ。」、文語訳聖書では「汝らの中(うち)に在るなり。」、新共同訳聖書では「あなたがたの間にあるのだ。」と訳されている。時代順に考えると、以前は神の国は心の内にあると受け止められ、その後信徒の交わりの中に、互いの関係の中にあると変わってきている。神の国が心の中だけであるなら個人別で良い、個人を超え教会に神様にある正しい交わりがあり神の国は表されていく。教会に神様の愛、慈しみ、和解、平安 …が互いにあって神の国が生まれる。私たちの教会は神の国かというチャレンジがここにある。

Ⅲ.神の国に招かれている
ルカ15章でパリサイ人や律法学者はイエス様が罪人と食事をしているとつぶやいた。自分たちは正しい、彼らは正しくないという非難が根底にある。イエス様は批判的な彼らに、神の国とは何かを語られた。神様の恵みへの招きが、3つの失われたものとして記されている。迷子になった1匹の羊は100匹中の1匹である。失われたのは1%、守られているのは99%である。世の中なら1%は切り捨てられて仕方ないとなろう。ここでは1匹の方がより大事だと考えられる。神様から離れている一人がいかに大きな存在であるかを知る。一人が見出されて、本来あるべき元の場所に帰ることがどれほどの喜びであるかを見る。神の国の喜びがここに表されている。

神の国は神の民の集まりである。最初から神の民であった人はいない。神様が呼び出された声に答えた者の集まりである。神様は今も声をかけ続けておられる。まず、私がこのお方に答えていく者であり、その上で呼びかけていく私たちである。