聖 書:ヨハネ14:12~18,25~28

(12)よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
(13)わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
(14)何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
(15)もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。
(16)わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
(17)それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
(18)わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。

(25)これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。
(26)しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
(27)わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
(28)『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。

 

「どなたにも『慰め主が参りました』時に、ただちに起こる問題は『この受けた恵みをどうして保つことができるか』ということであります。それに対する最善の答えは『あなたは〈恵み〉を保つ必要はない、〈恵み〉があなたを保って下さる』ということであります。」(バックストン「神と共なる行歩」)。
イエス様は召天される前に「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。」と約束されました。「助け主」の原語はパラクレートスであって慰め主、助言者、弁護者、援助者などと訳されます。

Ⅰ.共にいまし、内にいます御霊

人間社会にはいつの時代にも「悩みや苦しみ」はありました。現代人もまた肉体的、精神的、経済的、境遇的な面において苦しみ、悲しみ、痛み、傷つき、涙しています。そこで「慰め、いたわる、ねぎらう、同情する、共感する、つきそう、傾聴する、優しさ、」ことなどが必要になって来ます。それが簡単ではないところに大きな課題があるのです。
パラクレートスとは〈すぐ傍におられるお方、危急の時にもすぐ助けを求めることのできるお方〉を意味しています。旧約時代やイエスのご生涯においても神は人と共におられました。しかし聖霊降臨以降になって、御霊は「あなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいる」(17)ことになりました。御霊は外側だけでなく、内側にも臨在され、内側から私たちを慰めて下さるお方となりました。

Ⅱ.悲しみの人で、病を知っていたイエス
イエス様は山上の教えの中で「悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう」(マタイ5:4)と語られました。天地万物を創造された神には〈威厳に満ちた、近づきがたい〉お方という印象があります。しかし人となられたイエス様には〈柔和で、優しい〉お方という印象があります。それはイエス様が「悲しみの人で、病を知っていた」(イザヤ53:3)からに他なりません。人は自分が経験してきた以上の問題に共感することは困難です。讃美歌121番「馬槽の中に、産声上げ、大工の家に、人となりて、貧しき憂い、生くる悩み、つぶさになめし、この人を見よ」(由木康作詞)はイエス様の人性を見事に表しています。

Ⅲ.慰めに満ちたる神 (Ⅱコリント1:3~7)
パウロは「慰めに満ちた神」(3)と記しています。その慰めは「患難の中にいる時でもわたしを慰め・・あらゆる患難の中にある人々を慰めることができる」(4)、「苦難がわたしたちに満ちあふれているように・・慰めもまた、満ちあふれる」(5)、「わたしたちが患難に会うなら・・あなたがたの慰めと救いとのため・・慰めを受けるなら・・あなたがたの慰めのためであって・・苦難に耐えさせる力となる」(6)のです。慰めに満ちたる神は、真理の御霊であり、慰め主であり、「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」(14:18)お方なのです。

主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。なぜならば、与えることで人は受け取り、己を忘れることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。(聖フランシスコの「平和の祈り」から抜粋)